シャバに出てから──『智の涙』その後 第1回

第1回 これまでの私

矢島一夫

壮絶な成育歴を持ち、少年院に入院。のちに殺人事件を犯し、人生の大半を獄中で過ごした私は、長い刑務所生活を経て仮釈放となったいま、シャバではどんな人と出会い、どんな会話を交わし、何を考えて生きているのか。既刊本『智の涙』の著者による連載。

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書き手の矢島一夫氏は、戦争中、極貧家庭に生まれ育ち、小学生のころから働き、貧しさと苦労が重なるなかで少年事件を起こし少年院へ入院。1973年に殺人事件を起こし、強盗殺人の判決を受け、検察官からは死刑が論告されたが無期懲役が確定したが、いまは仮出所中。無期懲役で仮出所できる人は、日本では非常に稀で、0.3%程度と言われ、きわめてレアケースである。既刊本『智の涙』は、その矢島氏が書いた自伝と犯罪加害者の立場から伝えたメッセージ。貧困と絶望が生む怒りと暴力をどう克服するか。罪と罰に向きあうなかでめばえた、共に生き、生かしあう思想を世に問うた。

この連載では、実際にいま、日常生活の中でどんな人々との出会いがあるのか、どんなやりとりが交わされているのかを、等身大の言葉で報告する。
(編集部)
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成育歴やこれまでの人生については、矢島一夫著『智の涙』をお読みください!

※私の人生・背景を知っていただくために、連載第1回の最後に、著書『智の涙』より、「Ⅰ すみません」の全文と「Ⅱ 生い立ち」の一部を公開します。

長い、10年にも及ぶ裁判、32年にも及ぶ懲役生活。そして社会に戻されれば高齢と前科者であるために働く場がない。やむなく生活保護を受ける。自分には恥辱に思え、一日も早く生活保護を打ち切り、自立したい。でも、それがなかなかできない。

これらにかかる経費は、働く人々が生活苦・労働苦に耐えながら納めた血税によるもの。故に感謝と恩義は一日も忘れたことはない。

不本意にも、社会の穀つぶしになってはいけないと考え、なんとか社会的に有用な存在になりたいという一念で、これを認(したた)めている。

出所した人間が人生再建のために心躍らせる思いで努力しても、カネ無し・コネ無し、大衆の中の孤独で八方ふさがり。

ハローワークや呼び出し状のあった保護監察所で行くにも、交通費がない。だから昨日も自宅アパートから往復4時間も歩いて往復した。

私が娑婆に出て、世の中の人たちと交流するにあたり考えたことは多々あるが、たとえば次のようなことを考えていた。

・あの人の言うことは信じない。あの人のやることは真似しない。あの人の言うことは自分のためになる。あの人の行動を見習おう……。

このように、ちょっとした人の言葉や動作から、自分を作り直すヒントが得られるんだ。まさに人を知ることは自分を知ることなんだな。

・君にはわかるかい? わたしの苦しみが……。それと同じように、わたしも君の抱えている事情がわからない。だからこそ、わかり合おうとする心配りが必要なんだね。親子はもちろん、囚人同士でも囚人と看守の間においても……。

・自分が何をしたか/しなかったか。 社会が何をしたか/しなかったか。家族や友人が何をしたか/しなかったか。 それが現在のあなたでありわたしなのだ。

人の言動に、その人の思想・志操(※筆者の造語)が著わされる。省悟(※同前)しないでいい人なんて、この世に一人だっていない。自分の悪(みにく)さはしっかり省悟して、そのうえで言うべきことは言い、やるべきことはやって、これからの希望や目標につなげていこう。

このような話を囚僚たちとしながら、わたしは出所後の希望と目標を持っていた。

被害者と家族・社会に活きた形ある償いをすること。信頼できる人と一緒に刑務所や少年院・女子学院・保護施設に行って自力更生の大切なお話をしたい。青少年育成問題に関わりたい。身より頼りのない人が出所してからアウタルキー的(自給自足的)な自立生活ができるような受け入れ体制を創設したい。これによって暗くて長いトンネルに一つの小さな灯を点(とも)してあげたい。

「こんなろくでなしの自分でさえ、こうして立ち直れたのですよ。だからあなたたちだって、もっと素晴らしい人生を再建できますよ!」

このように囚僚たちに言ってきたし、社会に出てもこのスタンスと心の情熱は変わらない。

※次回から、周りの人との具体的なやりとり、交流についてお伝えします。

※以下に、『智の涙』より、「Ⅰ すみません」の全文と「Ⅱ 生い立ち」の一部を掲載します。

【ライタープロフィール】

矢島一夫(やじま かずお)

1941年、東京世田谷生まれ。極貧家庭で育ち、小学生のころから新聞・納豆の販売などで働いた。弁当も持参できず、遠足などにはほとんど参加できなかった。中学卒業後に就職するが、弁当代、交通費にも事欠き、長続きしなかった。少年事件を起こして少年院に入院したのをはじめ、成人後も刑事事件や警官の偏見による誤認逮捕などでたびたび投獄された。1973年におこした殺人事件によって、強盗殺人の判決を受け、無期懲役が確定。少年院を含め投獄された年数を合わせると、約50年を拘禁されたなかで過ごした。現在、仮出所中。獄中で出会った政治囚らの影響を受け、独学で読み書きを獲得した。現在も、常に辞書を傍らに置いて文章を書きつづけている。

==↓ここから↓==

◇◆◇◆
人を傷つけた者だから、傷の治し方がわかる。
人を殺めてしまった者だから、人を活かす道がわかる。
運命とは、命の運び方のこと。
使命とは、命の使い方のこと。
──著者

●序

はじめに

俺が強盗殺人の罪で無期懲役の判決を受けたのは、一九七〇年代の半ばだった。多量の飲酒によって前後不覚になってしまい、まじめな銀行員だった被害者の命を奪ってしまったことは悔やんでも悔やみきれない。被害者家族からかけがえのない夫・父親を奪ってしまった。今でも毎日手を合わせてくり返しお詫びをつづけている。

この本は、どうして俺がそんな罪を犯してしまったのか、そして、罪の償い、生きなおす方法はないのかを模索しつづけた俺の格闘の記録をまとめたものだ。

強盗殺人の容疑で捕まったそのころの獄中には、連続殺人事件の永山則夫さん(元死刑囚。一九四九~一九九七年。二〇八ページ参照)や連合赤軍事件のメンバーたちがいた。

同志にたいする殺人という陰惨な事件をおこしてしまった赤軍メンバーは、自分たちが「学生」という立場から社会の矛盾を観念的にとらえすぎたという反省があったのだろう。獄中の赤軍メンバーにとって、俺はそういう「学生」=「プチブル」とはまったくちがう最底辺のプロレタリアと思われたようだ。

永田洋子さん、坂東國男さんなど、赤軍メンバーから積極的なオルグ(勧誘)の手紙が届くようになった。手紙のなかには、日本の階級社会についての分析、どうしてまともに教育も受けられなかった俺のような存在が生まれたのかを教えてくれるものも多かった。

当時、同志殺しの赤軍にたいする視線は厳しかったと思うが、俺にとっては、自分の存在を客観的にみることを教えてくれた人たちであり、そのことにはいまでも感謝している。

でも、しばらくすると、どうもおかしいと思いはじめた。あいつらは、どこまでも俺になにかを教えよう、俺を指導しようとしているとしか思えない。あいつらにとって、俺は体のいい最底辺プロレタリア代表の人形にすぎないのか。国(警察・検察官や裁判官)が俺に社会のクズのレッテルを貼りつけようとしたのと同じではないのか。

俺は、国が俺に押しつけようとした社会のクズであることを拒絶した。おなじように政治党派が押しつけようとした最底辺プロレタリアのお人形さんであることも拒絶した。では、他人が俺に押しつけようとしたレッテルをすべて拒絶して、獄中にいた四十二年かけて獲得した俺とはなにか。

極貧でまともな教育も受けられず、ただ孤独と怒りにかられて犯罪をくり返していたかつての俺とどうやって決別し、俺のような無軌道な存在を生みだした国や社会を批判する立場を獲得できたのか。その一点を生きてきた証に残しておきたい。

まずは、この序文のつづきに、獄中の生活について書いておく。

そのあとに、仮出獄の直前に書いた事件にたいする悔悟の気持ち、俺の生い立ち、事件について、獄中での思索をおくことにした。

●「Ⅰ すみません」

わたしの誤ちについた罪名は、住居侵入・殺人・殺人未遂・強盗・刀剣不法所持です。

検察官には「悪鬼の所業」といわれ死刑が論告されました。

その後、無期懲役になり下獄して四十二年。このたび六月十日に、仮釈放となります。しかし、手放しで喜んではおりません。

事件当時生後二十日のこどもは四十二歳になり、二十歳であった妻は六十二歳になりました。わたしもすっかり馬齢を重ね七十三歳になり、これから秋蝉(『漢和中辞典』に学ぶ)の一声を啼いてみたいと思います。

わたしの妻子は、わたしから仮釈放になる旨の手紙を読み驚きと喜びでパニック状態だと返信をくれました。

わたしを支え待つ妻子は四十二年間、困難辛苦と戦いました。自分らには、何の罪もないのに、ろくでもないわたしと夫婦・親子の縁を持つことで連座制のごとき、差別・抑圧・屈辱を受け、忍の一字を社会的に負わされてきました。つまり、自身も第二第三の被害者であるのにそれをにも出さず、自分たちの人生を犠牲にしてくれたと思います。お互いに忍耐と努力の成果だねといってくれる妻子の言葉にただただ叩頭の思いです。

「死刑から無期懲役となり、生かされた命なら被害者・家族・社会のために形ある償いをして行こう」……と思いました。

「真面目にお務めして生き、家族のもとへ帰してもらおう」とも思いました。

そしてついに、獄門の開く日はもうすぐです。

でも、嬉しくない。本当です。被害者や自分の妻子に、申し訳ないの思いが心のなかに澱んでいるから素直に喜べないのです。

被害者の女性のもとには、生きて夫は帰りません。子どもさんたちの所へは生きて父親が帰ってはきません。この残酷な現実は、すべてわたしが産んだのですから、喜べるわけがないのです。

裁判の過程で、実況見分のため、被害者宅に連れて行かれました。そこでみた情景は実に身がすくみ心が凍るような重いものでした。

玄関の上り框の床や部屋の壁に飛散している黒く変色した血痕。それを今もって鮮明に思いだすと、検察官から言われた「悪鬼の所業」そのものだと、胸が苦しくなります。

キッチンの流し台には、使用後の食器類が水に浸してありました。それをみたとき、「すいません。本当にごめんなさい」と心から、声なき声で叫んでいました。

家庭の主婦である人が、家事と育児に疲れ食後の洗い物は「明日にでもしようか……」と思ったでもあろう水に浸しておいたのでしょう。しかし、その夜のうちに突然この「できそこない」の男によって迫害された。

食器一つ洗うこともできずに、住み馴れたわが家から出て行かなくてはならなくなった。そのこと一つ例にしても主婦として屈辱であったと想像するし、わたしへの怒り憎しみをもっても当然なのですね。

また一方、庭に目をやれば、洗濯物の物干し場には、住人不在で使われることもなくなったロープが風に揺れていました。

子どもたちが、こぎ遊び回っていたであろう庭は雑草が生いしげっていました。

自転車は雨ざらしのまま放置されて錆れ住み人なき家はわびしいものでした。

笑ったり泣いたり、叱ったり褒めたり、いろんな言葉がとび交い、夫婦が、親子が、寄りそい生き生きと活動していたであろう家がこのろくでなしの蛮行によって廃屋のようになっていました。

「家族の皆さんはどんな思いでこの住みなれたわが家を後にしたのだろうか……」。それを思うと、そのとき、泣き叫びたくなった思いを今も忘れることはできません。

その日は、拘置所に戻ってからも、その情景が頭にこびり付き心が痛み、一晩中、心も体も温まることはありませんでした。

あの日から今日まで四十年以上におよぶ獄中生活では、朝から朝まで、すみません、どうか許して下さいと心から繰り返して来ました。

公判記録で知ったのですが、事件当時は三歳だったという娘さんがこういったそうです。「ママの顔にペンキ塗ったのはだあれ……」と。この言葉はわたしの心をグサリと刺し、心も体も頭のなかも揺さぶられ、かきまわされ、痛みが走りました。そして、この言葉は、母を傷つけられた幼い子の全身による抗議であり糾弾だと受けとめたのです。そして、これに応えられるだけの内実をもたなければいけないと、強く自分にいい聞かせました。

家の大黒柱であり稼ぎ手であった人は、勤勉家の努力家であったそうです。夜学で大学を卒業し、日本銀行で将来を嘱望されていた人と裁判過程で知りました。

わたしとは直接何の関係もない人ですし、夜中に侵入した賊から家族を守ろうとしてわたしに飛びかかって来たのは当然の事でした。

被害者方へは、ある問題で、誤解や齟齬や納得がいかない点があったので、話し合いに行ったのでした。だがそれ以前に、一日中酒を飲み歩いていたことで、心も体も思考能力も、酒に飲まれてしまっていたわたしでした。気がついたら血だまりのなかに立っていたというのが実情です。

精神鑑定ではそのときの状態を心理学的に分析されました。

「大量の飲酒による異常酩酊。背後から飛びかかられることによって生じた原始的防衛本能。それによる運動暴発。由って心神耗弱状態にあった」という鑑定が出たのです。

しかし、それによる減刑はありませんでした。わたしはそれでいいと思いました。ほぼ事実だからです。飲酒のせいにはできません。するつもりもなかったからです。

事件を犯すために酒を飲んでいたわけではありませんが、自分はどの位の量を飲めばそうなるか、それによる酒害が自他ともにどうなるかふつうなら予想ができるのに、それでも酒飲みのいじ汚なさで飲むのですから心身をもち崩すほど飲んだ自分が一番いけないのです。

ともあれ仕事も家庭も人生も、これから充実していくという四十代の人を亡き者にしてしまった自分が一番悪いのです。

寂しいとき、つらいとき、困ったとき、「こんなときにお父さんがいてくれたらどんなに心強いか」と、そう思うことが被害者のご遺族にはあったと思うのです。

どんなに楽しいことがあっても肝腎の人が欠けた生活。その切ない思いを代わってあげることはできません。

いろんな場面で、口惜しい思いをしたり、悲しい思いをしたでしょう。父や夫としての立場から助言や叱責・教導をしたりされたりすることも必要だったでしょう。

夏は海やプール、秋にはハイキングに運動会、春は進学・就職・お花見、冬にはあの庭での焚き火とやきいも。炬燵を囲んでの一家団欒。これら四季折々に思いだす夫や父の存在。

そのときの情景を想像し自分を待つ妻子たちを重ね合わすと、胸は痛み、息苦しくなり、うわーっと叫びたくなる衝動にかられる独房の日々でした。

その心情を誰に相談できるでもなく、独房の壁にうつる自分の影と話すことも四十二年になりました。

凄惨な場面をみた子どもさんたちはどんなに心を傷つけてしまったろうか……。育成過程で影響する度合いを獄中にいる凡愚な自分には想像もつきません。

また、亡くなったご主人のお葬式や重傷であった奥さんの医療費もたくさんかかったことでしょう。犯人によって殺傷され、その後の必要経費もすべて遺された家族が負担しなくてはならなかったことでしょう。女手一つで三人の子どもさんたちを育て進学させたり生活してゆくことになったその物理的・精神的な負担、それを考えるとなま半可なお詫びの言葉もみつかりませんでした。

その念いが常に生活では心の澱みになっておりました。すみません・ごめんなさいでは済まないからです。ならばどうしたらいいのか。それを自分に追求する歳月でした。

加害者のわたしとその家族にマスコミ関係の人が押しかけ、「報道」という大義名分で「めしの種」にしたごとく、被害者のご遺族のかたにも大変なご迷惑をおかけしたのではないかといつも気にかけていた歳月でした。

何も悪いことはしていないのに、「あれがあの事件の被害者よ」と世間の心ない好奇の眼に晒されたのではないだろうか……。そのときのくやしさ・怒り・忍耐はいかばかりか、自分にも想像はつきます。

自分の妻子も同じような思いをして学校や生活の場を三転四転しながら世間の眼をのがれひっそりと隠れるように生活しているからです。

自分の心ない童蒙(わたしがつくった言葉です。子どもよりも無知で蒙昧なさま)な生き様と、いろんな偶発的条件が相乗して起きてしまった事件です。決して警察や検察が作り上げた、計画的な強盗殺人なんかではありません。

とはいえ、自らの蛮行が生み出した結果はこれまで自分が想像もつかないような第二第三の罪つくりをしてしまったことはたしかです。

家庭・家族・人間関係・そして生活・人生・未来を引き裂き、損ない、壊してしまった自分。まさに凶悪とか悪鬼といわれても当然です。自殺で償おうとしたこともありました。

お詫びの手紙や送金が返送されたり、怒り・憎しみをぶつけられても素直に受けとめます。むかしなら磔・獄門になるような自分による「悪鬼の所業」、いくらすみませんとかお許し下さいといっても失った父は帰らず、夫は帰らず、家庭は元に戻りません。

それでは、獄中の自分に何ができるのでしょうか。それを愚直なほど真剣に追求してきました。すみませんではすみません。

ですからわたしの謝罪心と省悟・自力更生の志操は、じつに朝から晩までではなく、朝から朝まで、頭・心・生活でフル回転しています昨日も今日も……です。

たとえば夜中に眼がさめます。すると既述のような、被害者におよぼした罪つくりの数々が頭のなかに甦ります。罪の呵責で眼が冴え、罪つぐないの実践をどうするか責め立てます。そのうちのいくつかを披瀝しておきます。

事件後は朝晩、壁に向かって正座し合掌して被害者故人とそのご家族に心から「すみません、お許しください」とお詫びしています。

下獄後は、教育課にお願いして被害者の氏名を書いた位牌を作っていただき、毎日合掌してお詫びをして来ました。

毎年正月には初日の出に向かって合掌します。被害者と今は亡き自分の家族に罪つくりな自分を詫び、被害者ご遺族や自分を待つ妻子の健康と安全を祈ります。また事件後は正月に出される御節料理や菓子類は口にしないようにしてきました。

被害者の月命日と春秋の彼岸日・盂蘭盆には教悔に出席し住職の読経をいただきながら被害者にお詫びをしてご冥福を祈り、香華を手向けてきました。

生活では、楽とか愉快とか、快と楽の字がつく事はすべて排除してきました。

芸能人や市民ボランティアの人たちが慰問に来てくれますが、被害者・家族・社会におよぼした害悪を思えば一つも楽しくありません。出席もしたくはないのですが、全員出席の規則があり、それも適いませんでした。むしろ被害者こそ慰問されるべきだと思うので見上げるステージは反省の資にしてきました。もちろんせっかく慰問にきてくださる人たちにはありがとうございますの思いで拍手はします。

わたしの凶刃により被害者はご不自由なお体で三人のお子さんを育て生活苦と戦っておられるのかという思いは一日も忘れたことはありません。ですから獄中の労働や人間関係のつらさ・苦しさがあってもそれを口に出すことはしませんでした。つらいとか苦しいとかを口に出すうちは、まだ反省や更生は本物じゃないという思いがあったからです。

家具を作る仕事に携わり、機械や工具で怪我をしたことがあります。そのときの痛みと流れる血をみて、「被害者はもっともっとこの何十倍もの痛みと苦しみを受けたのだろう。本当に俺はろくでなしだ」、そう思って傷の痛みに耐えました。自分を責めない日は一日もありませんでした。観念的ではなく建設的に考え、被害者にはお詫びの手紙と囚人労働でいただく報奨金から何度もお金を送りました。お葬式・医療・生活でわたしが想像もつかないくらい出費されておられるのではないかと思いその足しにしてほしかったのです。しかしその都度返送されました。残念で仕方ないのですが、しまいには、「被害者の感情を逆撫ですることになってはいけないので以後、発信や送金は許可しない」と告知されたのでした。

そして、仮出所する際の遵守事項には、「被害者の方へお詫びの手紙も出してはいけない。被害者と接触してはいけない」と定められています。

「わたしはストーカーではないのですよ。お詫びと形あるつぐないがしたいだけなのですよ」と言いましたが、「よく判っている。しかし被害者が謝罪の手紙も望んでいないのだとしたらそっとしておくのも一つの方法ではないか。犯した罪とお詫びの気持ちを一生持って生活すればそれでいい」という教諭を受けました。

被害者から送金や手紙も拒まれてしまい途方に暮れたわたしは、被害者支援基金の方へお金を送ろうと考えました。「プールされているわたしの報奨金から全額の三分の一を送らせてほしい」と願い出ました。が、「報奨金は更生資金であり、出所時に手渡されるものであるから趣旨のちがう所に送金することはできない」という理由で不許可になりました。

その後、わたしの仮釈放が決定し、そのことを知った被害者のご遺族からは思いがけない手紙を頂戴いしました。

その内容の全部を無断でここに記すことはできませんが、そのお手紙を読んでいる最中、ボロボロと落ちる涙をとめることができませんでした。

寛怒と情理のこもった仁慈あふれるような内容。それに対して、ありがとうございます、本当にすみません、という以外の言葉はありませんでした。毎日毎日読み返してはまっすぐに生きるエネルギーにさせていただいております。

「私はあの夜、あの部屋にいた三人の兄弟の末っ子です」から始まるそのお手紙は、「仮釈放までもうすぐです。心身大事にして下さい」で終わる五枚の便箋は七十三歳になるわたしにもの凄い活力を下さったと思います。

「仮釈放までの間に(略)、あなたと面会したい(略)、私はそう望んでいます」

とこのようにいってくださるご遺族にわたしは、お会いしたい。土下座しておわびしたい。と申し出ましたが許可になりませんでした。

明後日、わたしは宮城刑務所から四十二年ぶりに出所します。うれしいとは思いません。

被害者・家族・自分の高齢を考えれば、これからの社会生活は今まで以上に大変だと思うからです。でも、「ふぁいとっ」です。この道ひとすじです。人生は思い出作りの工場のようなもの。いい思い出も悪い思い出も作る。どうせなら一つでも多くのいい思い出を作ろう!

●「Ⅱ 生い立ち」

誕生から小学校卒業まで

世田谷の貧しい地区に生まれて

私は昭和十六年三月五日に、東京は世田谷の町に生まれ、鳶職の父親を頭に男十人女二人の合計十四人家族のなかの八男として育ちました。生活はとても貧しかったです。

記憶に残っている一番古いものは、戦争中のことで、私が四、五歳の頃のことです。母が私を背中におぶって空襲警報が鳴るなかを、私の家の前にあるドブ川を渡ってその向こう側の丘にある防空壕に逃げこむために家を出たとき、敵国の飛行機にねらわれ、機銃から射って来た弾からあやうく一難をのがれたことがありました。今でもそのことははっきり憶えております。私を背負った母が近所の植えこみのなかに逃げこむのが一歩遅かったら、母も私も当然現在はこうして生きていられなかったことでしょう(母はその後亡くなった)。もっとも、あのときアメリカの飛行機に殺されていたら、今日のこんなみにくい日本をみることもなく、また、貧乏人を無視した金持ちばかりが優先される矛盾だらけの世の中で、私は苦しめられることもなかったのでしょうが。皮肉なもんです。

そのことはさておき、終戦後防空壕の上におとされてあった、五十キロ油脂弾というのが片づけられず放置されたままになっておりまして、近所の子どもたちの遊び道具になっていたのです。今考えれば誠に危険な物ですが、子どもなので、その危険の度合いが判らず、私は近所の年上の子どもと二人でその爆弾で遊んでいて、その爆弾からはずした真管をいたずらしているうちに、それが爆発して鉛の玉が私のオデコにたくさんめりこみ、血まみれになって死にそうになったことがありました。そのとき一諸に遊んでいた年上の近所の子は手の指を二本吹き飛ばされました。今その人はどうしているのか判らないですが、そのときの恐ろしさは今でも忘れられません。父がその爆発音で家から飛び出し、近所から借りたリヤカーに血まみれの私たち二人を乗せて医者に連れて行ってくれたのですが、オデコのなかに入っている鉛の玉を針で一個一個取り出してくれながら、「ちくしょう、あんなところにしょうい弾なんかおとしやがって……」といっていたのをうっすらと記憶しています。父は多分敵国に対し怒りで充満していたんだと思います。

近所の大きい建物はほとんど空襲でやられ、私の家の前にある国士館という大学も跡かたもなく焼けて一面がガレキの山でした。近所の人たちは大人も子どもも先をきそってその焼け跡につめかけ、焼けあとをほじくっては銅とか鉄を堀り出し、それを売っては金にしていました。私は兄と二人してその焼け跡へ飛行機の風防ガラスの破片をひろいに行って、まちがって私は兄に鍬で頭を割られたことがありました。この風防ガラスというのは火をつけるとよく燃えるので、停電のときにはローソクの代用品としてとても便利なので、近所の子どもたちは競ってその風防ガラスを堀り出しに行ったものでした。

私の生れた世田谷のそのあたりは今でこそ一等地でありますが、その頃私の家を含めて近所の一区画はバラック造りの家ばかりで、朝鮮の人が一家族住んでいたために、その周辺一帯のことを周囲のお金持ちのお屋敷からは〝朝鮮部落〟とか〝軍かん長屋〟といわれ、何か一種特別の眼でみられておりました。〝朝鮮部落〟とは、朝鮮の人が住んでたからで、〝軍かん長屋〟とはトタン屋根が長く続き、その下に何軒もの世帯がうごめくように住んでいたからだと思います。そういうトタン屋根の上に石をのせてある貧しい家に住んでいるというだけで、金持ちたちの家の子どもらは、そしてその親たちも、まるで汚ないブタでもみるかのようでした。その親たちは子どもに対し、「あそこの部落の子と遊んではいけません」といって子どもどうしの仲をさき、「シラミがたかったらどうするの」といって私たちをまるで別世界の人間として、自分たちの子どもに近づけさせまいとしていました。

その頃の食事といったら、スイトン、カボチャの葉っぱ、イモのツル、フスマでできたパン、コウリャン、そして〝残パン〟といって、色んなものが混じった、現在ならブタが食べる物を食堂へ買いに行ったものでした。母親に手を引かれ、雪みぞれのなかを右と左のちがう大人のゲタをずるずるひきずって〝残パン〟を買いに行ったことも哀しい思い出のひとつです。私の下の弟を母は背中に背負い、そして私の手をひき、もう一方の手には買った〝残パン〟を入れるためのバケツをさげて、雪みぞれのなかをカサもささずに〝残パン〟を買い求めるための行列のなかに混じってかなり長い時間立っていたことも憶えています。その残パンの中味はウドンとか、パンとか、米とか、その他あらゆる食べられるもの、食べられないものが混じったもので、タバコの吸いガラや衛生サックなども入っておりました。

これらの〝残パン〟はアメリカ人が日本に上陸して来て、その人間たちが食べた残りを日本人の食堂がもらうか買うかして、それを貧しい人たちに売っていたもののようでした。それらの話を後で聞いたとき、私はツバを吐きたいくらい汚ならしさを憶え、敵国の残りカスを食べさせられたくやしさに、戦争に負けた日本のいじ汚なさをとてもだらしないと思ったものでした。それら〝残パン〟を買って帰り、家で炊き直して食べるのですが、その頃の貧乏人の家ではどこの家でもそういう物を食べなくては生きていけない状態にあったということを、ずっと後に聞かされたことがありました。

小学校へ入学して、一年生の頃から、私は二歳年上の兄貴と一諸に学校から帰ると、私の家から一キロ位離れた製材所へ「おがくず」を買いに行っていました。その「おがくず」というのは製材所で製材のときにノコギリから出る木の切り粉のことですが、その切り粉さえただではくれず、お金を出して買っていたわけです。その「おがくず」でごはんを炊いたり、その燃えた残り火を火ばちのなかにいれて暖をとっていたわけです。

その「おがくず」を買いに行くのに、私の家にはリヤカーなどなかったので、私の父がこしらえてくれたリンゴ箱を二個合せたような木の箱に、十五センチ位の木製の輪を前後につけて、それを兄が前でひき、私が後から押して製材所まで行き来していたわけです。しかしそのおかしな形の車をおして通る姿を、通る人間はよくジロジロみてゆくものでした。その製材所に行く道は、私たちが住んでいるようなトタン屋根のバラックの家とはちがって、瓦屋根や塀のある立派な家の続く道です。そこを往復するのですが、雨の降る日以外はいつもどこかにお屋敷の子どもたちがいて、兄と私が「おがくず」の箱をひいて通るといっせいにはやしたて、「ヤーイ、朝鮮部落」「軍かん長屋」といって石をぶつけるのです。

家が貧しかったので、新しい服などは買ってもらえず、私は兄のおさがりの服を着たり、民生委員の人からもらった服を着ていたわけですが、体に合わず、ダブダブの服を着て学校へ行くたびに笑いの種にされ、ボロの服を着ているというだけでクラスの仲間から、「あっちへ行け、クサイ」といわれ、遊ぶ仲間やグループ活動の仲間には入れてもらえませんでした。学用品のノートや鉛筆等も買ってもらえなかったので、一冊のノートに「こくご」「算数」「社会」とその他あらゆる科目を区切って使っていたし、鉛筆も短かくなったものをゴミ箱からひろって紙をまいて、それで使ったものでした。

そういうところをクラスの者にみつかってひやかされたり、乞食といわれ、クラス中の笑いものにされたりして、学校へ行くのがつらくなり、あまり好きではありませんでした。私たち兄弟は学校から帰っても遊ぶこともできず、母がお勝手で炊事に使う「おがくず」を買いに行ったりするたびに、その途中でお屋敷の子どもが遊んでいたりするのをみるととてもうらやましく思いました。

「おがくず」を製材所から買って帰り、もういいだろうと思って遊びに出ようものなら大変でした。遊んでいる仲間のみてる前で、父は私を殴り、家に連れ帰り勉強しろというのですが、学校に行って使うためのたった一冊のノートは、なるべく使いたくなかったし、短かい鉛筆も一応持っておかないと学校に行っても、ノートはない、鉛筆はないでは、恰好がとれないので、なるべく家ではそういうものを使いたくなかったのです。遊び仲間の目前で私が父に殴られるのをみて、友だちは私と遊ぶのさえ敬遠してしまうから、友だちもだんだんいなくなってしまうありさまです。

そしてしぶしぶ勉強をしていると、今度はその途中で「お使いに行って来い」といわれ、父が毎晩飲んでいる焼酒を買いにやらされるわけですが、私の他にも兄がいるのになぜか私ばかりが用事をいいつけられることが多かったので、買って帰る途中その焼酒の入っているビンを地面に叩きつけたい気持ちになったこともあったくらいです。その頃の正月は、よその子たちは、新しい洋服を買ってもらい、お小使いをもらって空地でそれらをみせ合ったりタコ上げをしているというのに、私たちの家は兄弟も多かったので新しい洋服どころか、正月のお年玉が二円五十銭だけでした。その頃はアメ玉が一個五十銭だった頃で、お正月の双六が五円です。それを私と兄と二人でお年玉を出しあって買って来て、家のなかに入ったきりでスゴロクをやったのでした。本当は、おもてに出て私たちもタコ上げや何かをしたくても、正月というのにボロの服を着て友だちのいるところへ出るのが恥ずかしかったのでそうしたものでした。

駅前の新聞売りや納豆のひき売りで働く

私は小学校三年くらいの頃から新聞売りをやるようになりました。玉電といって現在の世田谷線の若林という駅の改札口でやっていたのですが、新聞が現在のように専売店ではなく、朝日も毎日も読売もあらゆる新聞が一つの配販(販売)店でとり扱われていた頃のことです。新聞が一部、二円とか二円五十銭だった頃です。朝は四時起きして配販店に行き、新聞を仕入れて駅に向かい、一番電車が通る頃から駅の改札口の脇で売るわけですが、コンクリートの上に厚紙をひいてその上に新聞をひろげて売っている姿を同じ年くらいの子どもにみられるのが恥ずかしく、まるで乞食でもしているかのようでとても引け目を感じました。そしてそんな姿を同級生にみつからなければいいがなあーといつもビクビクしていたものです。

朝は七時半頃まで新聞を売ると、駈け足で家に帰り食事をするのですが、その頃の食事は米のご飯を食べているのは金のある家だけで、私たち貧乏人はサツマイモか、スイトンかふかしパンでした。それらをあわてて食べながら、また意地悪される学校へ行くのです。そして学校はまだ低学年だったし、授業は昼で終わりなので、家に帰ると前にも書いたように製材所へ「おがくず」を買いに行き、帰って来ると三時からすぐ夕刊を駅に売りに行くわけで、夜九時頃まで駅に立って売るのです。寒い日などは手に息を吹きかけて売っていると私と同じくらいの子どもが母親につれられ、それも母親の毛糸のエリ巻のなかに肩を抱かれながら家路に向かう姿をみると、腹がすいているのに何も食べられずそこに立っている自分がとても哀しくなったこともあります。お腹がすいても新聞を売った金は一銭も使えません。一度二円五十銭で今川焼をひとつ買って食べてしまったら、家に帰ってから売り上げ金が計算しても合わず、その足りない金額の理由を正直にいったら、父には「そんなに腹がへってがまんできないほど家でめしを食わしてないか」といわれ、さんざん殴られました。それ以後はどんなに腹がへっても一円の買いぐいもしませんでした。

そんなある日、いつものように駅で新聞を売っていると、急に体の具合が悪くなり、立って新聞を売っていられなくなって駅のコンクリートの上にひろげてある新聞の上に倒れてしまったのです。まだ私は小さかったので朝四時に起きて学校の授業をはさんで、夜は九時過ぎまで働くという日課が重なって疲労してしまったのだと思います。うつぶせに倒れている私を、その頃二十歳位にみえたが、見知らぬ女の人が私を起こしてくれて、駅前にある薬局から何かの薬を買って来てくれて飲ませてくれたのです。そしてその女の人は、「もう新聞を売らないで家に帰りなさい」というので、「これを売って帰らないと怒られるからいやだ」というと、女の人は五百円を私にくれて「その新聞を全部私が買ったことにしてやるから帰りなさい」といってくれましたので、その日はいつもよりずっと早く夕方の五時頃には家に帰ったのです。その女の人はお金はくれたが新聞をもって行かなかったので、私は家に持ち帰ると父は私が新聞は売って来ないし、お金は五百円も持っているし、「この金どうしたのだ」といって怒るわけです。私は一部始終の事情を話すのですが、私の話を信じてくれず、駅から盗んで来たんじゃないかといって殴るのです。

そんな頃のことですが、駅には今度新しく弘済会の売店ができることになり、私はその駅で新聞を売ることができなくなりました。新聞を売った利益がたいしたものではないことは今ではわかりますが、その頃は一生懸命新聞を売って少しでももうけて、家の暮らしに役立ちたいという気持で一杯でしたから、駅員で私といつも仲良くしていた人に、私は「売店なんか作ってずるいよ、ぼくの方がここで先に売っていたんじゃないか、それをもう売ってはいけないといって追い出すなんてずるいよ、何とかしてよ」といって泣いてたのんだものでしたが、結局どの駅にも売店ができるために私は新聞売りができなくなってしまったのでした。そんなことがあって新聞売りもやめなくてはならず、その後、あの親切にしてくれた恩のある女の人とは逢うこともできませんでした。

毎朝四時起きしているので学校へ行っても疲れて眠くて、授業中にはいつもいつも机の上に顔をのせて寝てしまっていたのでした。たしか小学校四年の頃のことですが、担任の先生が「君は朝早く起きて働いているせいか授業中はいつも眠ってしまうが、起こすのがかわいそうで、ついそのまま寝かせてやっていたのだよ」と放課後一人残ってしまった私はいわれたことがあった。授業も受けられられぬぐらい疲れて寝てしまうのを、担任の先生が黙認してくれることがわかった以後は、クラスのなかでは私の居眠りは公認になってしまったのでした。それが今ごろになって後悔する無学の悩みの原因となるとは、そのときは少しもわかりませんでした。

その頃の家の生活状態は困窮きわまるもので、私よりずっと上の兄たちが茨城のほうまでサツマイモを買い出しに行っていて、毎日の食事は、サツマイモのふかしたものか、ウドン粉をせんべいみたいに焼いたものが多かった。サツマイモが買えなくて帰って来たときは、何も食えない日もあったし、もう少し小さかった頃にはサツマイモのツルをゆでて食べたり、野に生えているハコベなどの野草を食べたこともありました。クズ屋のおじさんからもらった粉ミルクをなめて腹痛を起こし、下痢をしてころげまわったこともあったのでした。

その頃学校には、給食なんてありませんでした。クラスのみんなはそれぞれ弁当を持って来ていましたが、私はもちろん弁当なんて持って行けないのでクラスのみんなが弁当をひろげているのを横目でみながら、自分は家に昼食をしに帰るのですが、家に帰ったって食べる物なんて満足になく、小さく縮んだジャガイモが二個のときもありました。また、私は家に帰るふりをして、家には帰らず家に通じる畑道で畑仕事をしているおじさんの仕事を手伝ってやり、キュウリやイモをもらって食べてクラスのみんなが食事のすむ頃まで学校の外に出て時間をつぶし、午後の授業にはいかにも昼食して来たかのような態度で出席した哀しい思い出もあります。家に私が食べに帰らなければ、その分弟たちが余計に食べれると考えたからでした。そして家には学校で給食が出たといってをつきごまかしていましたが、この頃から他愛主義の観念が生まれていたのだと思うのです。私には、どういうわけか、「自分はどうなっても人には……」というところがあるのです。あとになってそのような精神が招く弊害に出会うとは、その頃気がついてもいなかったのでした。

また、私にはこんな面もあります。私はクラスのなかでも、とても〝おっちょこちょい〟で、いつもクラスの者を笑わせるようなことをしていました。その理由というのはいかにも愚劣なもので、前にも書いたように、私のクラスのほかの子どもたちの家は、学校の近くでいい暮らしをしているお金持ちの家ばかりです。その子たちは、左右が別の下駄をはいて登校したり、ボロボロの服を着て行ったりする私のことをひやかしたり、汚ないとかクサイとかいっていじめるのです。そこで、〝朝鮮部落〟とか〝軍かん長屋〟といって仲間はずれにされるのがいやで、それらの言葉を金持ちの子どもにあびせられる前に少しでも自分のほうから、おちゃらけたことをやって笑わせたりして媚びることを知らずのうちに憶えてしまっていたのでした。そうやって心にもない道化役者みたいなことをやった後の心のなかががらんどうのようになった淋しさは、何ともいえぬ虚しいものでした。

その頃は依然として製材所に「おがくず」を買いに行っていました。ある雪の降る日、「おがくず」を買いに行くのにいつもの木の車では雪の上は動かないので、その十五センチ位の木の輪を釘を打って固定して、その下に青ダケを裂いてうちつけ、「ソリ」のような形を作り、それを押して「おがくず」を買いに行ったのです。穴のあいた長グツの底から雪が溶けて入りこみ、冷たくて泣きたいのをこらえ「おがくず」をつんでの帰り道、いつものようにお屋敷の子ども連中にいたずらをされたのです。

この日兄貴は何かの都合で一諸に行けなくて私一人で行ったのでしたが、電信柱に向かって小便をしていると、そのすきをねらってどこかに隠れていたお屋敷の子どもたちが「おがくず」の入っている「ソリ」をひっくり返し「ソリ」の足になっている青竹を折ってしまったのです。私は一度だってお金持ちの子どもに悪さをしたことがないのに、貧乏だからといってこんなひどいいたずらをしなくてもいいじゃあないかと泣いたのでした。私はいたずらしたそのお金持ちの子どもを追いかけてその家の傍まで行くと、そのお金持ちの子どもの親はそれをみて自分の子どもに「そんな子と遊んでいるんじゃありません」といって自分の子どもがいたずらをしたことも怒らないで家のなかに入ったのです。私は「ソリ」をおこして雪の上にまかれた「おがくず」を泣きながら拾いました。その「おがくず」を持って帰らないと夜のごはんも明日の朝のごはんも炊けないからです。そのときのくやしかったことは今でも忘れられません。

この頃のごはんは米にサツマイモを切って入れ一諸に炊いたものが多かったのですが、それでもそういう食事らしいものは一日に一度あるかないかで、後は「ウドン粉」、その頃は「メリケン粉」といっていましたが、それを水で溶いて焼いたものが主食でした。学校に行けば汚ないとか、クサイから向こうへ行けといわれ、学校から帰って家のために働いていると「おがくず」をひっくり返されたり石をぶつけられたり、そういうことを私にするお金持ちの子どもがとても憎くらしくてしようがないのだけれども、いつもそういう子どもたちは何人も組んでいるから、私は腹が立っていつも泣き寝入りしてがまんしなければならなかったのです。

しかしそんな中で一つだけ心の温まる思い出がありました。その頃クラスの女の子で映画俳優の清水将夫さんの娘の由加子さんという子が私のとなりに座って並んで勉強していたのですが、この女の子がある日突然私にその子が食べているお弁当と同じものを持って来てくれたのです。その子と同じ玉子やきのおかずのお弁当を二人で仲良く食べたことがありました。多分私が昼食の時にいつも家に食べに帰るふりをしていたのを知っていたのでしょう。三十歳をすぎた今日、玉子やきをみる機会がある度にその子の事を思い出します。

そんな頃のことですが、学校自体が金持ちの息子や娘が多いので、クラスでも私たち少数の貧乏人の家の子どもはいつも遊ぶとき仲間はずれにされたり、体育の時間など、二人一組でする競技の場合は、「矢島さんとはクサくていやだ」といわれ、一人が私と組むことを拒むのでした。するとクラスの者全員の眼が一勢に集中し、私は恥かしくてその場にいられなくなり、泣きながら校庭を走って家に帰ったことがありました。それでも家に帰ると怒られるので学校に戻るのですが、もうそのときは次の授業が始まっており、自分の教室のある二階を校庭のかき根ごしにながめながら教室から聞こえて来る「夕やけ小やけのあかトンボ」という合唱をききながら、自分は今いったいどうしたらいいのか迷って苦しむのでした。みんなが汚ない、クサイといって私をきらう教室へどんな顔して入っていったらいいのか、家に帰るにしても学用品を教室におきっ放しなので困りましたが、思い切って目をつぶって教室に入ることにしました。その瞬間、クラスの全員が教室に入っていく私の姿に注目したのは当然のことでしたが、貧乏をしているというだけでいつも他人の目を気にしなくてはならない自分はとても辛かったものです。

やはりそんな頃、私の家は貧乏のどん底が続いておりましたので、風呂にも行けない日が続いて私の首のまわりには多分アカがたまっていたのでしょう。クラスの担任の先生が「矢島、今日は風呂に連れて行ってやるから」といって夕方若林町の風呂屋の前で待っているようにいわれたのでした。私は先生から指定された風呂屋の前で手拭一本を持ち一時間あまりも待っていたのに、ついに先生は来なかったのです。私はその先生がをついたと思いたくありませんが、実際に一時間あまりも私は待っていたのだし、風呂に入ることを楽しみにしていた気持ちを先生が来なかったことによって打ち砕かれたとき、「ああ、先生も俺のことをからかったんだな」と思って哀しかった。

その頃は新聞売りもやめていて、今度は納豆売りをしておりました。それは小学校四年の頃です。夜のうちに問屋に行って一個五円の納豆を十五個から二十個位仕入れて、翌日は朝五時頃から小田急線の成城学園あたりのお屋敷へ売りに行くのです。私は兄と一諸に売りに行くのですが、兄は私とちがって眉目秀麗な顔形をしており、二人が二十個ずつ持って行っても兄のほうがすぐ売れてしまうのです。

一度こんなことがありました。二人で一諸に売り歩いているときお屋敷から「納豆屋さーん」と声がかかり、二人でその家の玄関まで行くと、私の方が兄より一歩まえにいたので、私の「カゴ」から納豆をとり出そうとすると、そのお客さんは私をどけて兄貴のカゴから納豆をとり、お金を兄貴に払らうのでした。そして「寒いのに大変ネ」といって「うちの子のお古だけど……」といって黒いオーバー(その頃お金持ちのお坊っちゃんたちがよくきていたダブルの金ボタンのついたもの)を兄貴にきせてあげて、「しっかりやりなさいね」というのでした。兄貴と一諸に売り歩いていて私が「ナットー」「ナットー」と大声を出す役です。自分でいうのもおかしい位よく通る声で私のほうがイントネーションがきれいでした。けれど売れるのはいつも兄貴のほうばかりでした。

ある朝こんなこともありました。いつものように早朝の静寂のなかを「ナットー、ナットー」と売り歩いていると、お屋敷のお勝手口が開き私を呼ぶので、納豆を買ってくれるのかと思って飛んで行くと、「うるさいから、もっとあっちへ行って声を出せ」といって怒られたことがありましたが、そのときその人はとてもいいガウンを着ていました。それをみてこの納豆をいくつ売ったら買えるんだろうと思ったものでした。

そして、貧乏人とお金持とはどうしてこんなにちがうのかなあと思うと、ぼくはどうしてお金持ちの家に生れなかったのだろうと思ったし、自分の家はどうして貧乏なのかなあと思ったりもしました。家で母に一度、「どうしてうちはこんなに貧乏してるのか」と聞いたことがありましたが、「日本が戦争に負けたからだよ」というだけでした。私は納豆売りを終わってそれから家に帰り朝食をして学校に行くわけですが、私が納豆売りをおえて家に向かう道で、同級生が登校する姿とよく出会うのですが、そんなとき通行人のいっぱいいるところで同級生仲間から納豆屋さーんと大きな声でひやかされるのが一番恥ずかしかったです。そして家に向かう道すがら、「またみんなにひやかされ、いじめられ、のけものにされる学校へこれから行くのか」と思うと、いっそのこと学校なんか行かず納豆売りだけをやりたいという気持ちにもなったものでした。
==ここまで

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