シャバに出てから──『智の涙』その後 追悼編2

今回の追悼原稿は、矢島一夫さんの息子さんのTさんです。編集部でインタビューをしたものをまとめました。

●手紙のやりとり、面会

・お父さんのことをいつごろ聞いたのですか?
生まれた時は父はすでに家にいなかったです。刑務所に面会には行っていました。お父さんの話を聞いたのは、小学生の1、2年生のころかな。事件のことや内容まで知ったのはつい最近でしたけど。数年前に亡くなったお母さんが、そのちょっと前に話してくれました。それまでは、理由はわからないけれど、とにかくお父さんは刑務所にいるんだと思っていたんです。
面会に行くと言うと聞こえはいいけれど、行くと必ずお父さんはおもちゃなんかを用意してくれていたので、行くことがちょっと楽しみな面もありましたね。

・面会以外のやりとりは、手紙を通してですか?
はい。子どものころからずっと週2回、手紙を書くことが両親から義務付けられていたんです。
ちょっとでも休むと、もう「何があったんだ」とか催促みたいなことをいろいろ言われたので、それが大変で、子どものころ手紙を書くのは正直いやでした。
お母さんのほうがもっと大変で、最低週に3回書いていました。それを40年ぐらいかな、続けました。
お母さんは、仕事から帰ってきて、寝る間も惜しんで手紙を書いてました。
だから、もうちょっと手紙を休んでもいいんじゃないかなと思って見ていました。それに、よくそんなに書くことがあるなと感心していました。お母さんが書いた手紙は、たまにぼくも読んだこともあります。ぼくは、学校であったことなどを隠すこともなく書きました。学校であったことや友だちと遊んだことなどを自由に書けていたのでそれは良かったです。ただし、2枚以上は書かないとだめでしたけどね(苦笑)。お母さんは常に7枚は書いていたんですよ。

・たしか矢島さんは、受刑中の人が家族と手紙のやりとりできるように、獄中で闘っていましたよね。お母さんは、書くことで気持ちが安定した面もあったのかもしれませんね。

 

●働き者の母の思い出

・お父さんがいなかった頃、どんな生活をしていたのですか?
ぼくが小さいとき、母は電気工事関係の仕事で、ほぼ家にいなかったです。その後いま住んでいる所に越してきてからは、ずっと新聞配達をしていました。朝刊・夕刊と集金と。夜中の1時までに新聞屋に行かなきゃいけないから、起きる時間は夜の12時ですね。寝る時間も手紙を書く時間にあててましたから、お母さんの睡眠時間は少なかったです。
お母さんは、生涯お父さんのためにできることはすべて、いろいろとやっていました。自分のために楽しんでいるような様子はあまり見たことが無かったです。もうちょっと自分のことのために楽しんでほしかったな、と思います。
子どものころの思い出ってあまりないけれど、お母さんにいろいろ旅行に連れて行ってもらったりしたので、子ども時代を振り返って思うのは、「楽しかった」です。小学校3年生までは近くに学童クラブというのがあって、学校から帰るとそこに通っていました。楽しかったという気持ちはよく覚えています。
そのころは、まだゲームが出てくる前で、ドッチボールをしたり、屋根に上って、屋根から屋根に飛び移ったりして遊んでましたね。今ではもうできない遊びなんでしょうけど。
中学の時にお母さんの仕事の関係で、2年半ぐらい高知で暮らしていたことがあります。でもお母さんは仕事がなくて、生活は大変だったみたいですが、いま思えばぼくは楽しかったです。市内の中学校に通っていましたが、そこにはあまりなじめませんでした。仲よくなった友達が突然無視されたりして、理由がわからず、孤独でした。そのあと、中学2年の途中から今の所に住み始めました。転校は大変でした。

●ぼくも学校に通いながら新聞配達をした

ここに越してきてから、お母さんは新聞配達の仕事を始めました。配達区域を3区域ぐらい任されていて、本当に大変そうでした。ぼくは夜、家に一人でいましたが、お母さんは団地4軒分の配達を任され、さすがにお母さん一人では無理だからということで、途中からぼくも手伝うようになりました。
夜中の12時とか1時ぐらいから配達所に行って、4時ぐらいまでかかりました。お母さんはもっとあったので5時ぐらいまでやっていました。冬は真っ暗です。
ぼくはその後もだいぶ長く手伝いました。あまりイヤだと思ったことはなかったですね。でもその仕事のサイクルに体が慣れてしまって、ぼくはいまでも不眠ぎみです。そのあと夕刊の配達もしました。働いたお金は全部家のものだと思ったので家に預けていました。配達が終わると、疲れてしまって、学校に行かないことも多かったです。不登校というか。僕、まじめなほうじゃないんで。
学校に行ていた時のことは、もう忘れてしまいました。中学校の卒業式も出ませんでした。でもそういう生活がいやということはなかったです。そのあとも配達の仕事を続けました。ですから、中学の時から今までずっと働きづめです。
職場は、いい人ばかりでした。話もあいましたし。
新聞屋が家の近くだったので、泊まり込みではなく、家から通いました。

●優しくてみんなからも慕われていた母

・お母さんもTさんも、体にも相当の無理をしながら働いたのですね
はい。お母さんが6~7年前に脳梗塞になり、仕事ができなくなっちゃったので、ぼくがあとを継いでやろうと思ったんですが、そのころかなり新聞社の経営が苦しかったようで、それはかなわず、解雇になってしまいました。一番忙しかったころ、300部ほど配っていましたが、辞めるちょくぜんは100部以下でした。
団地の新聞購買者は、長年続けていたお母さんと顔見知りの人が多く、お母さんの人柄で購買数が持っていたようなものだから、いまはもっと減ってるんじゃないかなと思います。今でも団地を通ると、たまに声かけられます。
お母さんが倒れてから3年ぐらいはお母さんの介護をしていて、ぼくも仕事はできない時期がありました。

・Tさんが家で介護されていたのですか?
はい。お母さんの介護というのは、病院に連れて行ったり、最初のころはマヒがひどかったのでトイレに連れていくのもやっていました。ヘルパーをつけるのはいやがったので、すべてぼくがやりました。その間は生活保護をもらっていました。
でも亡くなる2、3年前には、お母さんは一人でなんでもできるぐらいまで回復したんですが、お父さんが帰ってきてから生活がまた大きく変わり、いま考えるとストレスが重なったのかもしれませんが、また悪化してしまい、脳梗塞で倒れて61歳で亡くなりました。
お母さんは、自宅で、突然、何の前触れもなくぼくの目の前でバタって倒れてそのまま亡くなりました。なのでまだちょっと亡くなった実感がないんです。火葬して骨まで見ているのに、配達にでも行ってまた帰ってくるような気がします。
この写真が、亡くなるちょっと前の写真です。ぼくはよくお母さんに似ていると言われます。お母さんはすごく優しい人でした。
プリキュアとか仮面ライダーとかも一緒にテレビを観ていたので、ぼくとも話が合って本当に良いお母さんでした。そういう性格だから、新聞屋で働いていたときも明るくて友だちも多かったんだと思います。
それにしても、お父さんと結婚したのがたぶんお母さんが21歳とらいだったので、苦労ばかりした人生です。
お父さんが刑務所から家に帰ってくると決まったときは、泣いて喜んでいました。40年間で、お母さんの泣いた顔を見たのはこれが最初で最後でした。たぶん本当に嬉しかっただろうし、期待もしていたんだと思います。

 

●お父さんが帰ってきてから

お父さんが帰ってきてから、生活がガラッと変わりました。
手紙をやりとりしていた時、お父さんの印象はすごく真面目そうなイメージだったのですが、なかなか普通の生活をすることができず、仕事に行くことができませんでした。
父が書いた連載の内容についても、ぼくから見ると、「これは違うよ」と思う点があります。

・何十年も刑務所にいたから、金銭管理から何から、ある日突然シャバの暮らしに切り替えろといっても無理があったのかもしれませんね。でも連載にもあるように、公園の掃除はよく続いていましたよね。Tさんはどんな思いでしたか?
お母さんが本当のことを言って、事件について知ったときも、別にお父さんのことを嫌いになったりはしませんでした。だから、刑務所を出て一般の暮らしをするようになったことによるしんどさなども、正直に言ってくれればなんとも思わないのに、たまに見えを張ったりしてウソついたりするんです。別に怒ったりしないし嫌いになることもないから、家族には正直にありのままのことを言ってほしかったなと思います。すなおな気持ちを言ってほしかったですね。
お父さんは帰ってきたときから胸が痛いとか血管が詰まっているとか言っていましたが、行くのはいつも町医者程度で、おおきな病院には一回も行きませんでした。行ってたらまたちがったんじゃないかと思うと残念です。循環器をちゃんと治療できる中央病院に行っていたら治療できたんじゃないかと思います。

 

●どんな仕事でも友達はできていく

新聞配達は通算20年ちょっとぐらい勤めました。いまの仕事は、パチンコ屋の清掃で、喫煙所やトイレの掃除と駐車場の管理をやっています。喫煙所に人がたくさんいるときは掃除は避けますので、ひまな時間もけっこうありますが休むわけにはいかないのでそれもキツイもんです。コロナのときも続けました。
そこの女性スタッフたちがすごく優しくて、声をかけてくれたりします。男性スタッフにはこちらから声をかけるんですが、コミュニケーションは女性スタッフみたいにはいかないですね。
週5日勤務ですので、お父さんのところにも(会いに来るように)呼ばれていたのですが、あまり行けなかったうちにこんなことになってしまいました(亡くなってしまった)。
ぼくはパチンコはまったくやりません。やり方がわからないですし。休みの日は、元気だと散歩しがてらブックオフやセカンドストリートで本や古着を買ったりしています。
食事は基本は自炊をするんですが、最近は忙しくて外食が多くなっています。お母さんが料理を作るのをずっと見ていて覚えていましたから、料理ができるようになりました。
生まれ育ちが東京なので、いついかはやっぱり東京に戻りたいですね。

どんな仕事でも、まじめに続けていれば、友だちはできていくと思うんです。ぼくも最初はパチンコ屋の仕事は何もわからず一人ぽっちでいましたけど、いまではみなさんのほうから矢島さん矢島さんと声をかけてくださいます。食事に誘ってくれたりもします。野球を見に行くとか、社員しか出られない会社の忘年会にも声をかけてもらうようになりました。まじめに勤めていれば、結果はついてくると思います。お母さんもそう言ってました。

1972年生まれでいま50歳です。いま振り返って、僕の人生はまあ楽しかったです。ちょっとお父さんに振り回されましたけどね(笑)。

 (2023年4月17日、東京近郊にてインタビュー)

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