シャバに出てから──『智の涙』その後 第11回

第11回 アイソレーション

矢島 一夫

新幹線と私鉄をのり継ぎ妻子が住むA市の駅に着いた。改札口を出ると石づくりのベンチに妻と子が座って待っていた。だが、喜こびと感動の熱い心は冷たい水を頭からぶっかけられた思いに変った。

ただいま! 長いこと苦労させてごめんな、と言う前に「おそいよ!」の一言であった。「おつかれさま・お帰りなさい」の言葉を期待していた自分の甘さを恥じたわたし。この「おそいよ!」の言葉は電車待ちの時間のことではなく、もっと現実的でシビアな意味深いものであることが理解できた。

妻子の住むアパートまでの道すがら、3人の会話はなく、わたしの足は重かった。あてがわれた部屋でムシヨでの在りし日をつくねんと想い返していた。

宮城刑務所に送られて4年ぶりに妻子が面会に来た時のことが思い起こされたのでした。

「面会に来ると2人で5〜6万円かかるのだから、生活保護を受けている身ではその後の生活が困るだろうから来なくていい」と言ってきたわたし。それに対して妻は、こう言った。

「確かに行かなければ生活は普通にできるけど、それではわたしの気持ちが許さないし、旅行のつもりでのんびり行きます。かずちゃんは全く気にしなくていいよ。」(そして以下、面会後の手紙)

 

ハーイ! 元気なお便りありがとう。又しばらくはお手紙での会話しようね。久し振りの面会たのしかったなあ。隆(息子)も家を出る時にはあれ話そうこれ話そうとずい分はり切って出たのですが直接顔を見ると感激して思ったよりもできなかったね。別れる時がつらいですよ。隆が少し涙ぐんでお父さんがかわいそう……だって言ってました。「お父さんよ〜く見るとまえ巨人にいた中畑さんに似ていた……」ですって。帰る時は一緒に帰れる日が早く来るといいね。かずちゃんが話した内容はむずかしくもなくTもよく判ったそうです。面会で、帰ったら死ぬまで大切にするとわたしに言ってくれたことほんとうにすご〜く嬉しかった。あのひとことで今まであったいろんな事がふと消えた思いです。わたしはかずちゃんのあの言葉を信じて待っていられる気がします。いつまでも仲良くいい夫婦でいようね。(そして息子の隆は)面会は楽しかったね。これでお父さんと一緒に帰れたらもっと良かったのに……と言ってました。

かずちゃんが自分に正直に生きいっしょけんめいにやってる姿はこどもの目に決して悪くは映らないのですから自信もって生活してください。毎日いやな事があっても一言も愚知を言わず頑張っている様子には頭が下りました。まだ先は長いけど、しっかり足を地につけて三人で頑張って行こうね。ずいぶん洋服は薄かったけどさむくありませんか? しもやけは大丈夫? 寒くつら〜い冬ですが心は春の気分で生活できますよ。又お便りします。佐代

 

息子の隆をタライ湯の中で抱えて洗ってあげた時、妻はまだ20代でした。ミニスカでチャラチャラしたい時期なのに、いつ帰るとも判らぬ無期囚のわたしと息子の2人をずっと貧苦労苦と戦い待ち続けてくれた41年。

そんな妻が言った「おそいよ!」の一言、それは俺や社会への告発であり怒りだと思った。この格差社会は、貧しい人を使い捨てのライターかボロ雑布の様に取り扱う。そうされている人はこの社会にたくさんいるだろう。その屈辱と怒りを誰がどこへどんなやり方で爆発させても、それを誰も責めることはできないだろう。

日本の若者・ご老人! しっかりしようぜ!

 

隆が生れて20日目にお縄になったから俺と生活歴のない隆は「何を話していいか判らない」と言う。永い拘禁生活の間に、俺の知らないところで親ばなれ子ばなれのできない母子が出来上りました。出所後、俺は職歴や前科の書けない履歴書持ってハローワークに行っても仕事がない。足を棒にして帰る家の敷居は高い。

妻からは、「働く気がない」と責めらましたね。

妻のSは一回目の脳梗塞で倒れた時は30年もやっていた新聞配達の途中であったとさ。

お見舞い一つあるでもなく母子共々首切りをした販売店。働らけなくなり、体は壊れ、貧苦の中で巣ごもり状態。掃除・洗濯・風呂掃除何でもしたがその度に妻から返ってくる言葉は「よけいなことをするな!」でしたね。

そして「さあ、一年が終る、来年はもっと自分・家族・社会を分析研究総合して改良に奮起しよう!」そう思っていた大晦日。「離婚してください」だもんね。ボディブローをくらった思いでしたよ。然し隠やかに即やかに手続きをしました。体がボロボロになる・家族が分断・夫婦別れ・巣ごもり・差別と疎外による冷淡な社会。先々の不安を抱えお先まっ暗なわたしと母子共倒れの危険性に怯えた時、離婚の選択は彼女なりの防衛本能と愛情の著われだったのかもしれない。

別れても矢島の姓名を使っていい?という彼女。引っ越してもわたし達の近くに住んでいてねとの希望を二つともOKした俺。懐が寒くなるとよく2人で顔を見せに来た。黙って帰したりせず、できることはした。帰る時に玄関では自力で靴が履けず、履かせてあげる俺の背中に両手で縋り、息子には聞こえない様なか細い声で「ありがとう!ごめんね」と言ったっけ……。精神障害の息子と俺との間で苦しみ、「おそいよ!」の一言と離婚の決断が生れたのだと思う。

自宅とは反対方向に杖と息子の手を頼りに歩いてゆく後ろ姿が、今も心に焼きついている。そして彼女は黄泉の世界へ旅立った。泣くに泣けない漢(おとこ)の世界はムショだけじゃなくシャバにもあった。

自分は一人。孤立している。身寄り頼りもなく八方塞がりの状態。どんなに貧しくても家族揃って食卓を囲むことができれば、どんなに倖せだろう。でも、それをさせてもらえなかった。またマイナスからの人生、ハンディ戦だが、独学自育した精神的膂力で明日をきり拓いてゆこう。妻が煙になって空へ還る日、俺は一日中座禅して合掌し、「ごめんな」をくり返していた。

流れる涙を拭くこともせず……。

俺って弱い人間だね。何をやってもダメ男。

 

 

[ライタープロフィール]

矢島 一夫(やじま かずお)

1941年、東京世田谷生まれ。極貧家庭で育ち、小学生のころから新聞・納豆の販売などで働いた。弁当も持参できず、遠足などにはほとんど参加できなかった。中学卒業後に就職するが、弁当代、交通費にも事欠き、長続きしなかった。少年事件を起こして少年院に入院したのをはじめ、成人後も刑事事件や警官の偏見による誤認逮捕などでたびたび投獄された。1973年におこした殺人事件によって、強盗殺人の判決を受け、無期懲役が確定。少年院を含め投獄された年数を合わせると、約50年を拘禁されたなかで過ごした。現在、仮出所中。獄中で出会った政治囚らの影響を受け、独学で読み書きを獲得した。現在も、常に辞書を傍らに置いて文章を書きつづけている。

タイトルとURLをコピーしました