シャバに出てから──『智の涙』その後 第14回

第14回 変わり者

矢島一夫

タバコの吸い殻・食べかす・レジ袋等をポイ捨てする人が後を断たない公園。わたしがそれらを拾っていると、手伝ってくれる人があらわれた。感謝!

(いつも掃除してくれている人がいるのを知っていながら、平気でポイ捨てをできる奴は市民づらした小悪党だな。)

夜勤帰りだと言うその人は、吐き捨てるようにそう言った。

(普段は善人づらしていても、人が見てなきゃ犬の糞をそのまま放置し人が見ているとビニールで包みそれを他人の家の植え込みに投げ捨てて行くのを見たことがあるよ。)

そう言ったわたしは、同年ぐらいの彼に親しみを感じた。何回か会ってベンチに腰かけいろんな話をするうちに顔馴染みになった。そして過去の不遇な人生をカミングアウトすると、

(永く生きてりゃいろんなことがあるさ。俺だって人に言えないような体験をいくつも背負っているよ。あなたは強いよ、堂々と世間に公表しちゃうんだもんな。)

(いや強くなんかないよ。弱い人間だからこそ、この歳になった今も自分自身と戦っているんだよ。俺も以前はポイ捨てをした人間だった。やっちゃいけないことを平気でやるのは公序良俗を屁とも思わない変わり者なんだよな。自室前にポイ捨てされた物を拾い続ける日の中で、捨てない人間・拾う人間になろうと気づかされたよ。自室から公園に行く道すがら、道路上に目立ついろんなポイ捨て物をチリ取りの中に小熊手でかき込むことも、何とも思わなくなったね。)

(そうだよな、普段はすまし顔で生活していても、陰で何やってるか判らない変わりもんもけっこういると思うよ。)

(どんな人間も変わった部分は持っていると思うよ。その変わった部分が何による個性なのかが問題なんじゃないかな。生活や人生の中で人さまに迷惑・嫌悪・危害を与える変わりものであってはマズイよな。人情と道理をつらぬいて生き、自分の中にやっていいことといけないことのケジメをつけられる自己憲法を持ち、自分と社会のためによかれと思うことはどこでも誰の前でも実践できる自律した人間。そんな変わった人間になら、大いになるといいんじゃないかな……。)

(こう色々聞くと耳の痛いような所もあるけど、そうだよな。立春をすぎてもこの寒さだけど、話を聞いていると体が温たかくなるような思いになるよ。)

正直に言うけど、以前の俺は気が小さく弱虫だったのです。自分の言いたいことも言えず人前で話すのが苦手でした。だからそこをつけ込まれ不利とか泣きをこうむることがよくあったのです。

人間関係や職場では、言ったこともないのに尾ヒレをつけて吹聴されたり、濡れ衣を着せられたこともありました。自分の不備・欠陥・弱点につけ込まれ、悔しくて頭にきたものです。

でもそんな自分を作りかえようと独学し、今自分は何を言い何をしなくてはいけないかを考えて、日々自身と戦って来ました。誤解や不利益を生じさせたり後悔したくないからです。そう決心して、勇気ある発言と行動ができるような変わり者になろうと工夫や努力を心掛けました。

どうせ一度きりの人生だもんね。どうせなら粋な人とか垢ぬけた人と言われる人になりたいじゃん。困難辛苦や無理難題、どんなことでも笑って受けとめることのできる器量人になりたいさ。寛恕(かんじょ)の心と柔軟性を持ち、良心と正義を発揮できる剛健性を持ち、よりよく生き志と節操を持ち、互助互恵に生きる智恵を持ち、しかもそれらを鼻にかけない人。どんな人の言うことにも耳をかむけ、人の情けが判る人、むずかしいことだけど、そんな生き様をさらしたいんですよ。今すぐにではないにしても一日一日人生の残り時間が少なくなっているよね。

だから不安と焦りがあります。でもそれは私欲や死の恐怖や生への未練からのものじゃないんだよな。こんなことでいいのか、もっとこうあるべきだろう。これだけ社会の力があるならこういうことについてはもっとこれだけのことができるはずだ。そう考えると、それを何故しないのか。すぐにやるべきだということに気づく。そのためには、人生のカウントダウンに入っている俺の存在を即ちに活用してくれ。それが何故できない!こういう意味の不安と焦りが俺にはあるんです。これは他ならぬ死への生甲斐でもあります。

世の中や世界は変化しています。なのに生活意識や自分を一向に変えようとせず、因習と偏見のどつぼにはまったような生き方をして市民を気取り、どう生きようと勝手だと開き直る頑固者がいるとしたら、そっちの方がず~っと変わり者だ。

気が合うタクシードライバーさんが来訪するようになり、冷たいおいしい水を飲みながら自相世相の話を沢山した。

心と家にある小さな鍵、大きな鍵。人間と世の闇を開くセットミーフリーの鍵。社会の良心、市民の正義、壁なき仁慈に溝なき友愛。変えねばならない今すぐにでも。自分・生活・社会のなかみ。

不安と焦りから夜郎自大的に言うことをお恕し下さい。犯罪も善行も摸倣される。人間は誰でも摸倣する。しないで生きている人はこの世に一人もいない。アイウエオからABCまで真似したり習わないでものを喋ったり書いたりする人はあり得ない。しかし昨今の世の中、メイク・ファッション・コトバ・しぐさまでがただのマネだけで似たり寄ったり。人の真似だけして満足なら猿・九官鳥・コピー人とおなじ。

金にならなくても、困難でも、いま自分がやらなくては誰がやるんだということと、いまやらなきゃいつ出来るんだと自分をムチ打つこと、生活に必ずあるそういうことから目と心を背けちゃいけないんじゃないか。

まねしならうことが学の原意なら、情理に悖(もと)らぬ言動をする人から本当に自覚した人間として大切なものをまねし、ならうようにしたいものです。それが自分を、より高尚で上品にしていくイロハではないでしょうか。善を勧めるものにはたとえ前科者や一介の社会的弱者でも拍手を贈ってほしい。

“感性がミミクリイズムにおかされて

工夫と品位が欠みし世の中”

 

 

[ライタープロフィール]

矢島 一夫(やじま かずお)

1941年、東京世田谷生まれ。極貧家庭で育ち、小学生のころから新聞・納豆の販売などで働いた。弁当も持参できず、遠足などにはほとんど参加できなかった。中学卒業後に就職するが、弁当代、交通費にも事欠き、長続きしなかった。少年事件を起こして少年院に入院したのをはじめ、成人後も刑事事件や警官の偏見による誤認逮捕などでたびたび投獄された。1973年におこした殺人事件によって、強盗殺人の判決を受け、無期懲役が確定。少年院を含め投獄された年数を合わせると、約50年を拘禁されたなかで過ごした。現在、仮出所中。獄中で出会った政治囚らの影響を受け、独学で読み書きを獲得した。現在も、常に辞書を傍らに置いて文章を書きつづけている。

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