彩流社 https://old.sairyusha.co.jp Thu, 03 Mar 2022 09:05:48 +0000 ja 1.1 https://old.sairyusha.co.jp https://old.sairyusha.co.jp 1adminsd@pot.co.jp 3araiarai@sairyusha.co.jp 4deguchideguchi@sairyusha.co.jp 6kohnokohno@sairyusha.co.jp 7manabemanabe@sairyusha.co.jp 11tamaokitamaoki@sairyusha.co.jp 12tamasakitamasaki@sairyusha.co.jp 15yamanakayamanaka@sairyusha.co.jp 17sdsd@pot.co.jp]]> 32eguchieguchi@sairyusha.co.jp 35chibachiba@sairyusha.co.jp 39makimaki@sairyusha.co.jp 40parkpark@sairyusha.co.jp 20226kioku http://wordpress.org/?v=3.1 オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第1回 https://old.sairyusha.co.jp/saimaga/kioku01.html Sun, 14 Jul 2019 15:00:19 +0000 maki http://www.sairyusha.co.jp/?p=500024064 木村英昭

6年前のことから書き始める。 2013年8月10日——。東京都心でこの日最高の37.0度を記録した。午後1時過ぎ、東京・西新宿にある新宿中央公園に到着した三輪祐児は汗だくだった。頭に巻いたバンダナはぐっしょりだった。いつものロードバイクの自転車で都心を駆け、自宅から1時間ほど掛けて着いた。 新宿区立区民ギャラリーに入った。リュックからハンディービデオカメラを取り出した。三輪は市民メディアUPLANを主宰している。この日から始まった展示イベント「反原発へのいやがらせの歴史展」に合わせたトークイベントの撮影を依頼されていた。2011年の東日本大震災を契機に、三輪は反原発や平和を求める市民活動を記録する活動に没頭していった。その活動の拠点にしたのがUPLANだ。 「反原発へのいやがらせの歴史展」では、原発に反対する市民や弁護士、研究者らに送られてきた嫌がらせの手紙やビラなどが紹介されていた。 トークイベントを前に、三輪は展示物を撮影した。「面白いな」「絵になるな」と思った。 一枚のイラストを見たとき、むずむずした思いを感じた。裸の女性が描かれていた。 「あれ、うちに似たようなものがあったような気がするなあ。似たようなことがあるもんだな。親父の机の引き出しに似たようなものが入っていたなあ」 この時、三輪は20年ほど前のことを思い出していた。1990年から数年後のことだったと記憶している。それは、探し物があり、父が暮らす都内のマンションに行った時のことだった。 *       *       * 父の引き出しを開けた。白い封筒があった。父に送られた手紙だった。日付は覚えていない。ファイルに保管されていた。三輪はその封筒を開けた。その手紙にはこう書かれてあった。 「あなたのように社会的に地位の高い人がこんなことをするとは信じられません。こんなものは受け取れません」 意味がよくわからなかった。そして、手紙と一緒に、裸体の女性のイラストが同封されていた。 そのイラストは、「反原発へのいやがらせの歴史展」で展示されていたイラストの筆致と似ていた。 三輪は歴史展の最終日である2日目も行った。しかし、むずむずした思いは消えなかった。 *       *       * 父は2012年12月に87歳で亡くなった。三輪はこの歴史展の前後から遺品整理に取り掛かり始めていた。歴史展で見た裸体の女性のイラストが気になり、三輪は以前見つけた封筒がないか、探し始めた。しかし、なかった。その代わり、父の手帳や業務日誌が見つかった。 父は大手広告代理店・電通のセールスプロモーション広報局(SP局)の展示設計部長(プロデューサー)をしていた。司馬遼太郎、岡本太郎、井上靖らとも親交もあったそうだ。 手帳や日誌のページをめくっていった。殴り書きの箇所はない。字も楷書で書かれ、丁寧だった。情報を整理するチャート図が描かれていた。 自宅から父のマンションに通いながらの遺品整理は、3年ほどかかった。 2016年のある日、イロハがるたの版下が出てきた。茶色のビニル袋に入っていた。三輪はハッとした。2年前の「反原発へのいやがらせの歴史展」で見たデザインやレイアウトとそっくりだった。 歴史展で見たものは、嫌がらせの言葉をイロハ歌にしてかるたに仕立てたものだった。反原発運動をする市民らの自宅に送りつけられていた。〈さあ殺せ 最後は得意の大の字だ!〉〈老学者 反原発で 生き返り〉…… 三輪は思った。 「親父は反原発運動への嫌がらせに関わっていたに違いない」 同時に、意外には思わなかった。 「親父ならやりそうだな」 =敬称略 =つづく [caption id="attachment_500024073" align="alignnone" width="500" caption="父は絵画が得意だった。画廊が買い取るほどだった。父の大作の前に座る三輪祐児=東京都中央区のUPLANで"][/caption]   [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。   【彩流社刊行関連書籍】 海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税) 海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税) 海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税) 七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税) 山本宗補 写真、関 久雄 詩『なじょすべ』(A5判112ページ、1,800円+税) 原発「吉田調書」報道を考える読者の会と仲間たち 編著『誤報じゃないのになぜ取り消したの?』(A5判95ページ、1,000円+税)]]>
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オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第2回 https://old.sairyusha.co.jp/saimaga/kioku02.html Wed, 14 Aug 2019 15:00:22 +0000 park http://www.sairyusha.co.jp/?p=500024409 木村英昭

三輪祐児は、電通で勤務していた父が反原発運動に関わる市民や弁護士への組織的な「嫌がらせ」に関与していたのではないか、という確信めいたものを感じた。

*       *       *

小学生の頃は電通の社宅で暮らしていた。現在の半蔵門病院(東京都千代田区麹町1丁目)のあるあたりだ。4階建ての3階。6畳2間の風呂なしの部屋だった。父と母、妹の家族4人で住んでいた。 家庭の食卓で交わした会話を今もはっきりと覚えている。 「5000円で車椅子に乗っている人間をデモ隊の前で転ばせて、それを隠しカメラで写し、『暴行するデモ隊』っていう記事を週刊誌に載せた」 「電通の社員に5000円を渡して、『赤提灯で美濃部の悪口を言え』と頼んでた。『美濃部は女囲っている』『横領している』と」 父は1971年には東京都知事選挙に立候補した、元警視総監の秦野章を応援していた。「革新都政」と呼ばれた美濃部亮吉の対抗馬だった。 食事をしながら「うまくいった」と成功談として語る父に、母は「あなた、そんな話やめてちょうだい」とたしなめた。 三輪の父は、とにかく新聞記者と弁護士が大嫌いだった。「あいつら」と呼んでいた。 テレビのニュース番組を見ながら悪態をつくこともしばしばだった。 「企業から金をとって、デモ隊と弁護士、新聞記者と山分けしているんだ。あいつら共産党だ。金のための汚いことを平気でやるやつらだ」 「水俣病の支援者は日当5000円をもらっている。金が目当てで、悪事を働く奴らだ。デモをする奴らは。会社に押しかけて権利を奪われたとい、真面目な会社を脅して金をもらっている」 「デモ隊にブスが多いのは、美人はいい会社に採用されるからその恨みで大企業にデモをするんだ。その金に群がるのが弁護士と新聞記者だ」 父がなぜそんなことを言っていたのか、三輪は父の言葉を聴きながら、理由はよくわからなかった。父が口癖のように言っていた言葉を覚えている。 「あいつらは金が目当てだ。大企業へのゆすりたかりをする。証拠はある。そうとしか考えられない。それが証拠だ」——。 三輪は「嫌ないやつらを俺たちはやっつける、やっつけるんだからどんな汚い手を使っていいんだ、正義だから許されるはずだ、と本気で思っていた」と生前の父を思う。 「父は〈正義〉をやっていた。本気でそう信じていたんです」 =敬称略 =つづく [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。   【彩流社刊行関連書籍】 海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税) 海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税) 海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税) 七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税) 山本宗補 写真、関 久雄 詩『なじょすべ』(A5判112ページ、1,800円+税) 原発「吉田調書」報道を考える読者の会と仲間たち 編著『誤報じゃないのになぜ取り消したの?』(A5判95ページ、1,000円+税)]]>
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オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第3回 https://old.sairyusha.co.jp/saimaga/kioku03.html Sat, 14 Sep 2019 15:00:35 +0000 park http://www.sairyusha.co.jp/?p=500024789 木村英昭

三輪祐児は2014年、弁護士の海渡雄一を訪ねた。海渡は「反原発へのいやがらせの歴史展」の主催者だった。 東京都新宿区にある海渡の法律事務所に足を運んだ。9月15日だった。三輪は、父が電通時代に記していた業務日誌や手帳など5点を海渡に渡した。 海渡は、反原発運動に関わる市民や弁護士らへ送られてきた嫌がらせの手紙のデザインや構成に、「広告関係の人間が絡んでいる」とにらんでいた。「広告のプロが腕をふるっているのではないか、簡単に作れるものではない、かなり手の込んだものだ」 海渡は業務日誌を一枚一枚めくっていった。三輪の父が、原発推進グループの一部となって働いていた姿を知る。そして、海渡は推理していた「犯人像」と三輪の父が重なった。 目の前の三輪は苦しそうだった。 三輪は「持っていたくない」と言い、持参した資料を海渡に託した。そして、父のことは口にすまいと決めた。それから約2年半が経った。 ところが──。 2017年1月2日。東京都千代田区麹町1丁目にある東京メトロポリタンテレビ(TOKYO MX)の『ニュース女子』で、沖縄・高江のヘリパッド建設工事に対する反対運動を「反対派は何らかの組織に雇われており日当2万円をもらっている可能性がある」と報じ、問題になった。その報道があった1月2日、三輪は取材で沖縄・辺野古にいた。放送倫理検証委員会(BPO)でも審議され、重大な放送倫理違反があったと判断された。 当時、東京MX前では、毎週のように抗議行動が行われていた。東京MXのすぐ近くには三輪が暮らしていた、かつての電通の社宅があった。食卓で父が吐いた「金が目当て」という言葉が重なった。 12回目の抗議行動があった同年4月13日、三輪は自ら自身のカメラの前に立った。そして、父のことを初めて公の場所で語り始めた。 ──「ここに立つと父のことを思い出します。父は一人テレビを見ていた時、『水俣病の患者は金が目当てだ。だから食べちゃいけない魚を食べている。病気になっているふりをしている。それで賠償金を取ろうとしているんだ』という考えの人でした」 「私みたいに喋っていると、『あれは5,000円の金をもらっているんだ』と言っていた」 「今回のMXの原型はすでに50年前、少なくとも私の父親の頭の中にありました」── 独白は11分31秒続いた。父への批判だった。 ただ三輪は思う。「父は父なりに私を愛していたことは間違いない。『親の命令は天皇の命令』『お前らは兵隊、自分は将校』と言っていた。自分は正しいことをしていると信じて疑わなかった。だから、それを私に必死で与えようとした。父は父なりに私を愛していた」 「都会」や「科学」を無条件で正しいと信じ、「コンピュータ」が全ての問題を解決すると言っていた。天皇と科学技術の信奉者で、正義の人──それが三輪の父、正巳(まさみ)だった。 三輪は父のことを語り始めた。 「父、正巳は、1925年、鳥取県日野郡にある山あいの里で生まれました」 =敬称略 =つづく   [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。   【彩流社刊行関連書籍】 海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税) 海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税) 海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税) 七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税) 山本宗補 写真、関 久雄 詩『なじょすべ』(A5判112ページ、1,800円+税) 原発「吉田調書」報道を考える読者の会と仲間たち 編著『誤報じゃないのになぜ取り消したの?』(A5判95ページ、1,000円+税)]]>
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オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第4回 https://old.sairyusha.co.jp/saimaga/kioku04.html Thu, 14 Nov 2019 15:00:34 +0000 park http://www.sairyusha.co.jp/?p=500025410 木村英昭

三輪祐児は、電通に勤めていた父の正巳(まさみ)が反原発運動つぶしに関与していたのではないかという強い疑いを持った。このことはプロローグで書いた。今回から本編に入る。三輪の記憶を頼りに、正巳の生い立ちをたどりながら、正巳が信じた〈正義のカタチ〉を読み解いていく。

  正巳は1925年5月28日、鳥取県南西部にある、山あいの集落、黒坂村(現在の日野町)(*1)で生まれた。岡山県倉敷市と山陰地方の商都・鳥取県米子市を結ぶ伯備線沿いにあり、鳥取県内最大の河川、日野川(全長77キロ)の中流域の左岸に位置する集落だった。旧黒坂村にあたる地域には現在、429世帯・975人(*2)。最盛期の1950年には3578人が暮らした(*)。『角川地名大辞典』によれば、黒坂という地名は「周囲に9つの坂道がありこれを九路坂と称したことにちなむ」そうだ。その名の通り、今も周囲を山々に囲まれ、それはそれは、のどかな時間が流れている。 正巳が生まれたのはそんな集落だった。大正デモクラシーの自由の息吹が息を潜め出し、軍靴の足音が次第に鳴り始める時代だ。治安維持法が制定されたのも、正巳が生まれたこの年だ。しかし、中央での動きが軌を一にするように黒坂の地に届いたかは、わからない。 正巳はこの黒坂の名士の家に生まれた。この地域の大庄屋だった。私家版の『高島健之助・久恵をめぐる人々』(1985年)には三輪家の家系図も載っており、三輪家に残るこんな言い伝えが記述されている。 〈初代甚兵衛より大庄屋として黒坂最古の家柄をほこる。甚兵衛は自費をもって、上菅(かみすげ)から甚兵衛井手(注:用水路のこと)を開削し多くの田地を開いたという。明治以来四代伴吉が黒坂郵便局長となり、六代義胤まで勤めていた。〉 「六代義胤は父の兄で、父は七人兄弟の五男だった。父と家族でお墓参りに行ったことがあって、三輪家の墓はものすごく大きい。よく父は『黒坂は土葬だから、その下に樽が埋まってんだ。腐ってくると、その上を歩いた人がボコッと落ちることもあった。人魂が光っていたことがある』なんていっていた」 この義胤は大酒飲みだったようで、一代で三輪家の身代を食いつぶしたようだ。だから、物心がつくまでは正巳は「名士の坊ちゃん」として不自由のない暮らしをしていたはずだ。そして、兄の義胤の放蕩で家が傾いていく様を、身をもって体験したことになる。 「父は酒を飲む人をものすごく嫌っていた。そして、働かないで金を受給する生活保護者を『パチンコと酒飲んで金もらっている』と憎悪していた。この憎悪は、たぶん義胤のことがあったからなんだろうと思う」 私たちは黒坂を訪ねることにした。 =敬称略 =つづく 〈脚注〉 *1 1913年に黒坂村と菅福村が合併して黒坂村になった。その後、この黒坂村は黒坂町になり、1959年に日野町と合併して現在の日野町に至っている。 *2 2019年10月末現在。。鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。 *3 鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。   [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加(2018年に早大から独立)、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。   【彩流社刊行関連書籍】 海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税) 海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税) 海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税) 七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税) 棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税) 山本宗補 写真、関 久雄 詩『なじょすべ』(A5判112ページ、1,800円+税) 原発「吉田調書」報道を考える読者の会と仲間たち 編著『誤報じゃないのになぜ取り消したの?』(A5判95ページ、1,000円+税)]]>
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オーラルヒストリー・三輪祐児 父と原発の記憶 第5回 https://old.sairyusha.co.jp/saimaga/kioku_05.html Tue, 14 Jan 2020 15:00:24 +0000 park http://www.sairyusha.co.jp/?p=500025810 第5回 「自分手政治」の故郷

木村英昭

電通に勤めていた三輪祐児の父、正巳(まさみ)は反原発運動つぶしに関与していたのか──。私たちは正巳が生まれ、育った地に立った(*1)。

  [caption id="attachment_500025" align="alignnone" width="640" caption="日野川に沿って広がる黒坂の集落=2019年12月20日、鳥取県日野町黒坂"][/caption]   そこは鳥取県の南西部の山あいの里、日野郡日野町の黒坂地区。鳥取県を代表する一級河川、日野川が大きくうねる。鳥取県の商業都市・米子市と岡山市を南北に結ぶ伯備線が日野川に併走する。1時間に数本、電車がガタゴトンと走る。429世帯975人が暮らしている(*2)。 まずは、黒坂の歴史をざっと遡ってみよう。 黒坂の隣にある根雨(ねう)地区が、江戸期の参勤交代の宿場町として賑わい、良質なタタラ製鉄の一大拠点として栄えた「商業の町」なら、ここ黒坂は鏡山城(かがみやまじょう)を中心にした城下町だった。 黒坂で近世の扉が開かれたのは1632年(寛永9年)。この年に池田光仲(1630-1693)が岡山藩から国替えになり、鳥取城へ移った。鳥取藩の中西部にある拠点の町は「自分手(じぶんて)政治」で統治された。藩主が統治するのではなく、藩の家老の家筋に当たる重臣(着座家)が統治を任された。この「自分手政治」は米子(西部)と倉吉(中部)の拠点地域のほか、それに準じる町でも実施され、その一つが黒坂だった(*3)。全国でも例のない統治方法だった。廃藩置県までの約240年間続いた。 藩政から完全に独立したものではなかったが、それでも藩主の重石(おもし)がないものだから、人の往来を促し、自由な気風を育んだのかもしれない(*4)。 黒坂は福田氏が治めた。福田氏は藩主の家臣ではあったが、着座家ではなかった。なのに「自分手政治」の任に就いた(*5)。福田氏は黒坂陣屋に家老や城奉行を置いた(*6)。 三輪祐児の父、正巳の3世代前のご先祖様、甚兵衛は1817(文化14)年 に生まれた。江戸の中期、9代将軍徳川家重が亡くなる前年だ。田沼意次が老中として幕政に影響力を持った時代、と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。 そして、その江戸からはるか遠く離れた黒坂の地に、甚兵衛は根を下ろした。理由はよくわからないが、近くの野田地区(旧日野村)から移り住んだそうだ。甚兵衛は後に、黒坂での功績を称えられて「三輪」の姓を与えられる。鳥取県公文書館には「三輪家文書」の資料が残るほどの名士となった。 はたして正巳はどのようにして「天皇と科学技術の信奉者」になったのか。それを知るためには、甚兵衛のことから書き始めなくてはならない。 三輪甚兵衛。三輪家隆興の祖にして、功徳の人。黒坂の地で、その名を知らぬものはいなかった。   [caption id="attachment_500025" align="alignnone" width="640" caption="江戸期の黒坂の様子 (出典)黒坂鏡山城下を知ろう会『黒坂 歴史めぐり』"][/caption]   (敬称略)   〈脚注〉 *1 2019年12月20日・21日。 *2 2019年10月末現在。日野町住民課への電話取材、2019年11月12日。 *3 中林保「近世鳥取藩の陣屋町」『人文地理』26巻4号、1974年、86頁。 *4 JR西日本の情報誌『グッとくる山陰2017秋号』には、黒坂同様に「自分手政治」が行われた米子が「町人が自由に商売できる独特の経済都市として発展」と記載しているが、『米子市史』には米子城を預かった荒尾氏の専制ぶりを記述する箇所もある。「自分手政治」が人びとの暮らしや経済・産業にどのような影響を与えたのか、なお研究の成果を待たねばならない。ただ、少なくとも米子が江戸期に山陰を代表する商業の町として発展したことは確かだ。 *5 日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年、106頁。『黒坂 歴史めぐり』には福田家4代目久武の墓碑の碑文の要約が紹介されている。それには、「代々山城国葛野郡越畑に居城し、周いの村を支配していた左衛門慰景通の時に福田姓を名乗る」とある。もともとは京都の出身ということになる。 *6 日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年、107頁。   〈参考文献一覧〉 青木通男「宝暦・天明文化」『日本歴史大事典3』小学館、2001年。 黒坂鏡山城下を知ろう会『黒坂 歴史めぐり』2011年。 JR西日本『グッとくる山陰2017秋号』2017年、2020年1月9日取得(JR西日本ウェブページ)。 杉本良巳編『米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科 : 決定版』郷土出版社、2008年。 鳥取県『鳥取県史 第3巻 近世 政治』 中林保「近世鳥取藩の陣屋町」『人文地理』26巻4号、1974年、86-102頁。 中林保「近世鳥取藩の城下町」『歴史地理学紀要』19号、1977年、67-107頁。 中林保「近世鳥取藩の宿駅」『歴史地理学紀要』21号、1977年、145-174頁。 日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年。 米子市史編さん協議会『新修 米子市史』2004年。 米子市役所『米子市史』1973年。   [ライタープロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加(2018年に早大から独立)、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。]]>
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耳にコバン 〜邦ロック編〜 第5回

第5回 「あ」とか「ザ」とか

コバン・ミヤガワ

 

ついつい「あ」が出る。

無意識に「あ」が出るたびに、心の中でも「あっ」と言っている。

 

 

いつものようにコンビニやスーパーに行って、買うものをカゴに入れ、レジに向かう。

「ポイントカードはお持ちですか?」と店員さん。

「あ、持ってないです」とボク。

「お箸はご利用ですか?」と店員さんがまた尋ねる。

「あ、いらないです」と答える。

 

最近この「あ」がすごく気になっている。

会計で受け答えするとき、ついつい「あ」と頭に付けてしまうのだ。

 

本来「あ」というのは、不意を突かれた時に咄嗟に出てしまうものだと思う。

想定外の質問に対し「あっ、それは〜です」みたいな感じ。

あるいは「あっ、〜だ」というように、何かに気がついた時。

 

コンビニのレジなんかは、毎回聞かれることはほとんど変わらない。

ポイントカードの有無、箸やストローはいるか、レジ袋はいるか、弁当は温めるか。

つまり、聞かれることは全て想定できているのだ。無論、答えも想定済みである。

にも関わらず、なぜか「あ」と口から出てしまう。

 

この癖についてしばらく考えた。

 

別に嫌なわけではない。無意識に出てしまうのが何だか歯痒くて気になってしまう。

「いや、いらないです」とか「いや、大丈夫です」なら理解できる。

ついつい口に出てしまうと「また言っちまったよぉ……」と、自分で自分が少し恥ずかしくなるのだ。

 

最早一つの定型文みたくなっているのかもしれない。

冠詞のaみたいなものかもしれない。

 

「ア、いらないです」

いや、英語だったら「アン、いらないです」になるか。

 

今度theにして言ってみようかしら。

「ザ、持ってないです」

「ジ、イラナイデス」

メタルのバンド名みたいだ。

何を言っているんだか。

 

 

あれこれ考えた。

 

 

考えた挙句、ボクは「ポイントカードはお持ちですか?」の問いに対し「持ってないです」だけでは、何だか冷たく答えているような気がしているのだと思う。

全くそんなこと思っていなくても「持ってないですけど、何か?」みたく聞こえてしまうのが怖いのだ。

 

ところが頭に「あ」が付くとどうだろう。急にソフトになる気がするではないか。

「あ」が付くだけで、少し優しい口調になる。

「すいません、持ってません」と言ったニュアンスになる。

 

そう考えると、無意識のうちに出るこの癖もそう悪くはあるまい。

皆さんはどうでしょう? 「あ」はどんな時に出るでしょうか。

 

 

さて今月は2021年の始まりにふさわしい、パワー溢れる超有名バンドを一緒に聴いていきましょう。

 

皆さんご存知ザ・ブルーハーツ(THE BLUE HEARTS)です!

こっちは「あ」じゃなくて「ザ」ですね。

「ザ」ってやっぱりバンドっぽい。

 

パンクロックのレジェンド的バンドである。

パンクのサウンドやスタイル、ファッションを日本中に広く知らしめた。

 

歴史に残る名曲を数々生み出し、いまだに人々を魅了し続けるブルーハーツ。

今回は、そんなブルーハーツの魅力を再確認していきたい。

 

ザ・ブルーハーツは1985年に結成され、87年に「リンダリンダ」でメジャーデビューを果たす。

誰もが知るあの名曲である。

 

 

ボクも思い入れが強い。

中学生の頃、ギターを買ってもらって、初めて弾いた曲が「リンダリンダ」だった。

 

AとかGとかDとか、覚えたてのコードをジャカジャカ弾き鳴らし「リンダリンダー!」と1時間でも2時間でも歌っていたものだ。

それだけでとっても嬉しくて、ロックスターになったような気分だった。

 

やはりなんと言ってもボーカル、甲本ヒロトとギターの真島昌利(通称マーシー)の歌詞が秀逸である。

シンプルでストレート、しかしながら他の誰にも書けない世界。

 

早速歌詞を見ていきたい。

 

ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから

リンダリンダ リンダリンダリンダ
リンダリンダ リンダリンダリンダ
もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんな時はどうか愛の意味を知って下さい
リンダリンダ リンダリンダリンダ
リンダリンダ リンダリンダリンダ
(以下略)

 

「ドブネズミ」というワードから始まる歌。

このインパクトは後にも先にもない。

 

「ドブネズミは美しい」

この意味とはなんなのだろう。

 

ボクは「誰かを愛する気持ちに大きさも見てくれも関係ないんだ!」という意味が込められているのだと思う。

 

どんなに世間で汚いと思われているドブネズミでさえも、自分の子供は大切にする。他者を思う根本的な愛は誰も、どんな生き物も変わらないのだ。その想いこそが美しく、写真なんかには写らないよね。

 

そう言っている気がする。

甲本ヒロトなりの哲学が垣間見える。

 

その上で「リンダリンダ」と続く。

そもそも「リンダ」とは何なのか。

この点については、甲本ヒロトがインタビューで「僕にもよく分からない」「自由に歌っていいんだよ」と言及している。

 

 

つまり「リンダ」とは誰でもないのだ。反対に言えば、誰でもいいのだ。

 

それは家族、恋人、愛する誰か。

もしくはもっと広い「何か」であってもいい。

 

それら全ては「リンダ」なのだ。

聴く人によって「リンダ」は違う意味を持つということだ。

 

今のボクにとっての「リンダ」は、過去の自分かもしれない。

この曲に胸を打たれ、ギターを手にし「リンダリンダー!」とジャカジャカ弾きながら1時間でも2時間でも叫んで、敵なんかいないと思っていたボクかもしれない。

 

 

パンクの熱いサウンドと共に、ストレートに心に入ってきてガツンと響く、そんな曲だ。

 

 

もう1つ、こちらもボクの大好きな1曲を。

1993年に発売された「1000のバイオリン」である。

 

 

この曲の作詞作曲はギターのマーシーだ。

甲本ヒロトのシンプルでストレートな歌詞とは違い、もっと文学的で美しい歌詞を紡いでいる。
早速見ていこう。

 

ヒマラヤほどの消しゴムひとつ
楽しい事をたくさんしたい
ミサイルほどのペンを片手に
おもしろい事をたくさんしたい

夜の扉を開けて行こう
支配者達はイビキをかいてる
何度でも夏の匂いを嗅ごう
危ない橋を渡って来たんだ
夜の金網をくぐり抜け
今しか見る事が出来ないものや
ハックルベリーに会いに行く
台無しにした昨日は帳消しだ

揺篭から墓場まで
馬鹿野郎がついて回る
1000のバイオリンが響く
道なき道をブッ飛ばす
誰かに金を貸してた気がする
そんなことはもうどうでもいいのだ
思い出は熱いトタン屋根の上
アイスクリームみたいに溶けてった

 

なんて美しい歌詞でしょう。

ヒロトのストレートな歌詞とマーシーの美しく文学的な歌詞の世界。

ブルーハーツの魅力だ。

 

 

でっかい消しゴムとペンだこと!

消しゴムとペンでたくさんたくさん書いて消す。

そのうち使った消しゴムは山のように積み重なり、ペンはまるでミサイルくらいにまで高くなる。楽しいことや、おもしろいことの根本は「何かを生み出すことだ」というメッセージだと思う。

 

一番好きなのは最後の部分だ。

 

昔、誰かに金を貸してた気がする。

そんなことはもうどうだっていいんだ。

小さい頃、暑い夏の日、トタン屋根の上でアイスを食べた。

暑い日差しに、アイスはドロドロ溶けて手をつたう。

そんなドロドロのアイスと一緒に、過去のことなど流してしまおう。

大事なのは、未来の楽しいこととおもしろいことなんだ。

 

そう言っている気がする。

 

もう本当に素敵。

なんて美しいのか。

日本語ならではの美しさも光っていると思う。

 

甲本ヒロトや真島昌利の歌詞には、シンプルで、それでいて美しい「日本らしさ」が凝縮されているのだ。

 

 

そんなブルーハーツを聴きながら、2021年も突っ走っていきたい所存。

 

「あ」とか「ザ」の話でした。

 

 

[ライタープロフィール]

コバン・ミヤガワ

1995年宮崎県生まれ。大学卒業後、イラストレーターとして活動中。趣味は音楽、映画、写真。
Twitter: @koban_miyagawa
HP: https://www.koban-miyagawa.com/

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