あてにならないおはなし 第24回

阿部寛

1985年5月、たまり場ユンタークが誕生して間もなく、上田裕子(ひろこ)・隆勇(たかお)・真裕美(まゆみ)の親子がさっそうと登場した。当時、隆勇は小6、真裕美は小4だった。初訪問時は確かお父さんも同伴していたが、今となっては顔も名前も記憶にない。家業の失敗で倒産し、お父さんは間もなく姿を消したからだ。

真裕美は、後頭部の骨に欠損があり、直径8㎝のこぶ状の脳みそがはみ出して生まれた。産院の主治医は慌てて大学病院に連れていき、両親はドクターから「どうしますか?」と尋ねられた。放っておけば脳にばい菌が入って死んでしまうという。母親の裕子さんは、育てることを即断した。それ以後はまさに生き残るための闘いの連続だった。視覚障害センターに相談に行ったら、重複障害・視覚障害児は対応できないと断られ、国立特殊教育総合研究所重複障害教育研究部に回された。そこで松田直先生と運命的な出会いを果たし、様々な機能回復訓練を受けた。

真裕美の出生時の視力は、全盲に近い状態だった。裕子さんは部屋の明かりをすべて消し、真裕美がろうそくの火や懐中電灯の明かりを目で追うかどうか繰り返し確かめたという。そしてある時、真裕美が光の方に顔を向けた。まさに奇跡としか言いようがない瞬間が訪れたのだ。

小4でユンタークに来たときは、中心から20°の上下左右の視野狭窄で、右の視力が0.2、左の視力が0.1だった。どれほどの努力をしたことだろうか。

わたしたちは、家庭や学校での生活状況を尋ねた。裕子さんは、地域でともに暮らすことをめざし、自然食販売店を兼ねた自宅の前に御座を敷き、近所の人たちと触れ合う時間と空間を創り出していた。四つんばいでハイハイしながら近所の家を訪問したり、こどもたちといっしょに遊んだ。そのうち、母親は真裕美をレジに立たせ、会計を手伝わせた。

真裕美は身体を拘束する補助器具を嫌ったため、補助靴も履かず、ヘッドギアも使用したことがないという。「たまり場にはけっこうやんちゃなこどももいますけど…」というと、裕子さんは「それがねえ、自分で危ないと感じると、ひょいと頭をよけるのよ。ワハハハハ」と、全く意に介さない。その気迫に圧倒され、真裕美をたまり場で受けいれることとした。

徹底して地域でともに生きることを追求した上田親子に、小学校入学時に「就学時健康診断」が立ちはだかった。

学校保健安全法(1958(昭和33)年制定)第11条に「就学時の健康診断」について定められ、第12条では市町村教育委員会は、「治療を勧告し、保健上必要な助言を行い、及び学校教育法第17条第1項に規定する義務の猶予若しくは免除又は特別支援学校への就学に関し指導を行う等適切な措置をとらなければならない」としている。つまり、障害や疾病を抱える子どもに対して学習権を保障するどころか、社会的に排除し、憲法第26条で保障された「教育を受ける権利、教育の義務」を放棄する内容だ。

横浜市教育委員会は、特別支援学校入学を強く指導し、裕子・真裕美親子は地域の小学校入学を主張した。結果は、地域の小学校の特別支援学級(当時は「特殊学級」と言っていたと思う)に入学することとなった。

しかし、それでは納得がいかない母子は、
小学5年の5月の連休明けに、「特殊学級」から「普通学級」へのクラス替えを強行突破し、学校長も教育委員もこれを認めざるを得ないこととなった。

かつて、ルドルフ・フォン・イエーリング(1818~92年、ドイツ)は、『権利のための闘争』(岩波文庫)において、「自己の権利が蹂躙されるならば、その権利の目的物が侵されるだけではなく、己の人格までも脅かされるのである。権利のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献する」と主張した。上田親子の闘いは、まさに「権利のための闘争」そのものであった。

真裕美・隆勇兄弟がたまり場に参加したことで、様々な刺激と創意工夫が生まれた。子どもと大人との共同学習「寺子屋」では、識字・教科学習(ほんの少し)・遊び・遠足・修学旅行などに取り組んだ。

識字の時間は、大人も子どももいっしょに詩や絵本を読み、日々のくらしの様子や経験してきたことを綴り、読みあった。真裕美も大きな文字を左右に蛇行しながら、素敵な文章を綴り出した。小学校の担任との交換日記も始まった。毎日のくらしの中でのうれしい出来事やくやしい思いがリアルに表現された文章は、すがすがしくもあった。仏教詩人・坂村真民の詩「自分の道をまっすぐ行こう」を書き写した文字は、大きくかつうねうねとくねっいて、彼女の人生そのものだった。いっしょに学んだ大学生が真裕美の文字を見て、「すごいなあ…。まいったなあ」と、何度もうなったのも印象的だった。

真裕美がスポーツや遊びに参加するたびに、こどもたちは全員で話し合い、みんなが参加可能なルールに変えていった。

忘れてならないのは、兄・隆勇の存在だ。家庭、学校、地域、障害者の教育相談研究所、そしてたまり場でも、隆勇のサポートは見事だった。真裕美自身でやれることは決して手を出さず見守り励ます。

隆勇とは、強烈な印象を残したいくつかの出来事がある。

寺子屋の勉強が終わり、帰りのバス時間が迫っているのに、真裕美が帰り支度をせず、ぐずっている。隆勇が靴を履き、玄関先で何度も帰りを促す。それでもぐずる真裕美に対して、隆勇はしびれをきらして、靴を履いたままたまり場に上がり込んで、真裕美の頭を激しくたたき「何やってんだよ。早くしろ」と怒鳴った。わたしは驚き、隆勇を激しく叱った。当時、隆勇は家計を支えるため新聞の朝刊を配達していた。家に帰り夕食を済ませ、風呂に入ったらすぐに寝なければならかった。

隆勇を叱ったものの、ひどく後味が悪い。たまり場で共同生活をしていた井上さん、秋吉さんと相談し、翌朝4時に起き、隆勇の新聞配達を手伝うことにした。隆勇の家の前で待ち伏せして、「新聞、いっしょに配るぞ」とだけ声をかけ、担当区域を回った。わたしたちは、隆勇の指示に従って、手分けして新聞を配った。すべてを配り終わったのは午前7時頃だったろうか。わたしたちは母親の裕子さんには声をかけず、たまり場に戻った。

もう一つ、隆勇とはこんな出来事があった。奈良・京都への修学旅行を控えた中3の秋、学校側では、教師たちの監視の目から外れる「自由行動」の時間に、こどもたちが問題行動を起こさないようにするためにいくつかの対策を立てた。そのひとつが、部落差別の悲惨さと部落民への恐怖を意図的に植え付ける授業の展開だった。その役目を社会科担当教師が担った。3時間に渡る「基本的人権」の授業の中で、身分差別の歴史と現状、同和対策審議会答申と対策事業の内容を詳細に説明したうえで、その取り組みを根底から覆す発言をした。

「京都には被差別部落があり、そこの人たちは非常に怖い人たちで、トラブルを起こしたらひどい集団で押しかけてくる。だから、自由行動のときは騒いで歩かないように」。

その日、隆勇は寺子屋に来て、授業ノートを示しながらその日の授業の内容を知らせてくれた。同級生もこの授業に疑問を持っているという。

何人かの同級生のノートとも突き合わせ、差別授業の事実確認をした。差別授業をした教師は、当初発言を否定したが、授業を受けた生徒たちのノートを示したら、差別授業をした事実を認めた。

そして、部落解放同盟神奈川県連合会が主催した話し合い=糾弾会が行われた。差別授業をした教師と学校管理者、教育委員会とが参加し、話し合いは何度も行われた。その中で横浜市内の中学校では、以前から修学旅行前に、同様の授業が行われたことが判明した。部落の生活実態や差別の現実を情報として伝えても、人権尊重の視点と当事者との対話や人的交流に欠けた教育は、「互いを遠巻きにする差別助長・管理教育に過ぎない」ことを痛感させられた。さらに、子どもたちが学ぶ教育現場が、いかに子どもの人権を無視し、意見表明権を侵し続けているかを思い知らされた事件だった。

その後、この兄妹は、どのように生きたか。

真裕美は、中学校を卒業すると、高齢者施設で働き始め、その後施設にボランティアとしてきた青年と出会い、結婚した。二人の結婚披露宴は、実に素敵だった。家族、友人、職場の同僚、たまり場ユンタークの仲間、教育相談を継続した松田直先生などに囲まれた祝福の宴だった。

わたしは、寺子屋で彼女が書いた作品といくつかの印象深いエピソードを紹介し祝辞とした。

隆勇は、看護師、鍼灸マッサージ、柔道整復師を経て、現在は美容鍼灸マッサージのカリスマとなっているらしい。

母親の裕子さんは、「何やってんだかね~。わたしにはわかんないのよ~」と、隆勇の活躍についてそっけない。

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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