僕がゲイで良かったこと 第39回

第39回 阿波根昌鴻さんに学んだこと3

平良 愛香

 2004年前半、辺野古の座り込みはとてものどかで楽しくすらあるものでした。ところが8月13日に沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが墜落してから、状況は一転しました。小泉首相が「普天間基地は危険だから、一日も早く、辺野古に基地を完成させて移転させねばならない」と言ったことで、工事が強行されるようになってきたのです。

前回お伝えしたように、海(漁港)につながる道は、座り込むたくさんの人たちの抵抗で工事車両は通れなくしてあります。そうなると沖縄防衛施設局(現在は沖縄防衛局)は、工事のボーリング調査のために、陸路ではなく直接船で現場(海上)にやってくるようになります。島内のほかの港から作業の船を出してくるのです。基地建設阻止の座り込みの人たちもそれは見越しており、島のあちこちの港を見張ってはいましたが、2004年9月9日、作業船と監視船は朝早く、辺野古から50kmほど離れた沖縄島南部の馬天港(ばてんこう)から連なって出港しました。座り込みのほうも「いつかその日が来るだろう」と予測しており、それまで何ヵ月もかけて幾人もの人が小型船舶の免許を取得したり、カヌーを漕ぐ練習をしたりしていました。

そしていよいよその日、準備していた抗議船とたくさんのカヌー隊で沖に繰り出したのです。お昼過ぎになって作業船団は辺野古沖にたどり着きました。そこからは攻防です。工事予定地点にブイを落として浮かべようとする作業船、それを阻止しようとする抗議船とカヌー隊、さらにそれらを邪魔する何艘もの監視船。たくさんの船やカヌーが辺野古沖の海上で入り混じるのです。海に出られない500人近い座り込みメンバーらは、陸のほうから遠く沖のほうでたたかっている「黒い点」にしか見えない仲間たちに、声の限り「ガンバレー!」「負けるなー!」と叫び続けました。実際に声は聞こえないかもしれない。けれど叫ばずにはおられないのです。攻防は17時頃まで続きました。

その日の夕方、作業船らが馬天港に帰っていったあと、抗議船とカヌー隊のメンバーが陸に戻ってきました。カヌー隊の人たちが言いました。「必死に作業船を止めようとどんなに頑張っても、監視船が入ってきて邪魔される。一所懸命に止めていたのが作業船ではなく監視船だったりする。相手の数が多くてとてもかなわない」。抗議船に乗っていた人たちが言いました。「いざというときには海に飛び込んで、プカプカ浮いて、船を近づけさせないようにしようと覚悟していたのに、怖くて飛び込めなかった」。そして抗議船の船長はこう言いました。「わたしたちは頑張りました。頑張ったけど、作業船がとうとうブイを1個、海に下ろしてしまいました。事実上これが工事の開始となってしまいました。おじい、おばあたちが8年間工事を止めてきたのに、私たちは止めきれなかった。おじい、おばあ、ごめんなさい!」そう言ってたくさんの人の面前で泣いたのです。泣きながら「でも私たちは明日も続けます」と言っていました。おじい、おばあが言いました。「あんたたちが頑張ってくれたから、本当は何百も海に投げ込まれるブイがたった1個で済んだんだよ。明日も頑張ろうね。」これが海でのたたかいの初日の様子です。怒りと、悲しさと、そして「明日からも非暴力でたたかうのだ」ということを感じた日でした。そしてその攻防は、それから毎日、2024年8月の現在までも続いています。

非暴力でのたたかいはあまりにも「無力」に感じることがありました。単管やぐら(金属のパイプを組み合わせて建てるやぐら)を作るために作業船から海中に単管が投げ込まれると、抗議船のメンバーは海に飛び込んでそれを拾い、「作業をやめてください」と訴えながら作業船に返す(そのころには、「怖くて海に飛び込めない」ということはなくなっていました)。それをひたすら繰り返す。疲れがたまるのです。また、こちらがいくら非暴力でたたかっていても、相手方が暴力を使ってくることがあります。抗議のために浮かんでいる人がいるにもかかわらず、気づかないふりをしてスクリューを向けてバックしてくる船があったり、潜っている人がいるのを知りつつ真上で止まる船があったり。潜っている間に酸素ボンベのバルブを閉められた人もいました。

「戦争は人間が人間でなくなることは知っていた。けれど、戦争の準備も人間でなくなってしまうことを知った」と当時の辺野古のメンバーは言っていました。海上で殴られて気を失い、海底に沈んでいた人もいました。救急車で運ばれて息を吹き返すまで工事はストップしたとのことですが、「あなたが暴力を振るった男性は命を取り留めました。海での暴力は命取りになります。二度と暴力を振るわないでください」と相手に伝えに行った際、本当は殴り掛かりたかった。けれど、戦争という最大の暴力に抵抗するために、私たちは非暴力を選んだ。非暴力がこんなに苦しいと初めて知った。そういう言葉を辺野古で聞いたのです。(続く)

 

[ライタープロフィール]

平良 愛香(たいら あいか)

1968年沖縄生まれ。男性同性愛者であることをカミングアウトして牧師となる。
現在日本キリスト教団川和教会牧師。

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