第9回 淡彩の味わい、十代目金原亭馬生
広尾 晃
私は十代目金原亭馬生(1928-82)を聞きたいためだけに、関西から東京に通っていた時期がある。
独演会などはあまりしない噺家だったから、落語協会の寄席を追いかけるしかない。鈴本、新宿末広亭、池袋、浅草演芸ホール、ホール落語にも行った。
晩年は、父五代目古今亭志ん生の出囃子だった「一丁入り」で出ていたが、どちらかといえば「鞍馬」のほうがすんなりくる。
惣領弟子の金原亭伯楽が「鞍馬」をもらったが、馬生と言えば「鞍馬」だった。あの三味線の音が聞こえると胸が高鳴ったものだ。
小柄な馬生が、真っ白な足袋裏を見せながら、ふわふわした感じで出てくる。お辞儀をする。軽く咳払いをする。
最低限、人様に聞こえる程度の声を出している、という感じで「えー、お寒うございますな」などとつぶやくように話す。この人は、人に媚びたそぶりは一切しなかったから、いたって淡々としたマクラだったが、それが楽しかった。顔をくしゃっと皺よらせて笑顔を作ると、なんともいえない上品な優しい顔になるのだった。
愛嬢は中尾彬夫人の池波志乃。若いころは彼女のことを、春風亭小朝が「谷岡ヤスジの描く唇の分厚いお姉ちゃん」などと悪口を言ったが、今、その風貌を見ると、親父によく似てきたなと思う(谷岡ヤスジももう知らないか)。
寄席では、長い噺はできないから、せいぜい「笠碁」「天狗裁き」が聞ければよいという感じだったが、淡彩ながらもしっかり笑いをとる。相撲が好きで、「花筏」「大安売り」なども聞いた覚えがある。
今、考えてみると、当時の馬生は、今の私よりも若いのだ。すっかり白髪で、酒豪だったから脂気が抜けて、老人のようだった。でも、壮年の気は残っていたのだろう。弟子の指導などは厳しいと聞いたことがある。
弟の古今亭志ん朝(1938-2001)は、華やかで万人に喝采をさせるような水際立った噺家だった。兄弟は対照的だといわれたが、私は大いに共通点があったと思う。
それは、口先ひとつでぱっと情景を広がらせるような、見事な表現力があったこと。せりふ回しと目の使い方が素晴らしかったのだ。
万事淡彩で、控えめだった馬生だが、一度だけ会場を轟々たる爆笑の渦にしたのを見たことがある。大阪のNHKで行われた東西落語会。
演目はお得意の相撲ばなしの「佐野山」だった。このマクラが傑作だったのだ。行司や呼び出し、力士のしぐさを描いたものだったが、誇張が効いて、本当に面白かった。満員の客席が「ひーひー」いうような大受け。当時全盛期の桂枝雀にも負けなかった。
関西ということで、馬生は、多少濃いめの演出をしたのだろう。あるいは、上方の人気落語家に伍して、「俺にもこういう腕があるんだ」と見せたかったのかもしれない。
相撲のマクラは本人も気に入っていたようで、少し時間があるときにはよくやっていた。どこでも大爆笑で、ここまで人を笑わせるマクラも珍しいだろう。
相撲ネタはことさら力が入る師匠だった。聞く値打ちはあると思う。
「富久」も懐かしい。酒好きの幇間久蔵が、富くじに当たるおめでたい噺だが、馬生演じる久蔵は無欲でさっぱりとしたいい男だった。年末に馬生のこの噺を聞くと来年は良い年になるように思えたものだ。
碁将棋の噺も好きで「笠碁」「碁泥」なども楽しかった。馬生が描く素人の碁打ちはいかにも大家の大旦那らしくて上品だった。
「百川」も馬生のものだったろう。料亭の奉公に上がった田舎者の聞き間違いが騒動になる噺だが、ストーリーテラーとしてしっかりした話術があるので、場面がくっきりと浮かび上がってきた。六代目三遊亭圓生や十代目柳家小三治もいいが、馬生はより滑稽味が多かったように思う。
十代目馬生逝って40余年。十一代目馬生もいい噺家だが、私にとっては十代目は今もあこがれの噺家である。
[ライタープロフィール]
広尾 晃(ひろお こう)
1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」執筆。また文春オンライン、東洋経済オンライでも執筆中。主な著書に『プロ野球なんでもランキング 「記録」と「数字」で野球を読み解く』(イースト・プレス、2013年)『プロ野球解説者を解説する』(イースト・プレス、2014年)『もし、あの野球選手がこうなっていたら~データで読み解くプロ野球「たられば」の世界』(オークラ出版、2014年)『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス、2015年)『ふつうのお寺の歩き方』(メディアイランド、2015年)『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ』(イースト・プレス、2016年)『奈良 徹底的に寺歩き 84ヶ寺をめぐるルート・ガイド』(啓文社書房、2017年)等がある。