第11回 SUKI or KIRAI
コバン・ミヤガワ
昔は嫌いで仕方なかった茄子やほうれん草が、今ではそんなこともないし、むしろ好きになった。
逆に、幼い頃に好きだったブロッコリーや生クリームが苦手になっていたり。
好き嫌いとは案外コロッと変わるものだ。
ただ、きのこのことは一生嫌いであろうという自負がある。
それくらいにきのこの類が嫌いである。
味も食感も嫌いだが、なんといってもあの傲慢さが嫌いである。
まず名前。
「きのこ」という名前の図々しさったらない。
「木の子供」で「きのこ」。
んなわけない。木の子供は苗木でしょうが!
あんたらは木の横っちょに生えているチンチクリンでしょうが!
木が望んでもないのに、勝手にニョキニョキ生えてきて子供面をするわけだ。なんと図々しい。
人間で例えるなら、映画「エイリアン」でエイリアンによって、人間のお腹に卵を生みつけられるのと似ている。人間だったら、断末魔を上げながら、お腹が裂けてチビエイリアンがでてくるんですよ!?
恐ろしいったらありゃしない。
スーパーなんかでも、傲慢だなぁと思う。
お野菜コーナーで「ボク野菜だよ〜」という顔で、メインの一角を占領し、我が物顔で座っているのが気に入らない。
野菜じゃないでしょうが! 菌でしょうが!
100歩譲ってお野菜コーナーでも、はじっこの方でひっそり「えへへ……」と苦笑しながら、申し訳なさそうに佇んでいなさい。くれぐれもキャベツや大根といった「ザ・お野菜さん」の隣に並ぶでない!
それか「きのこコーナー」みたいな区画を作ればいいと思う。
そっちの方がきのこにとっても居心地がいいだろう。
ボクは、きのこと一生分かり合えないのだろう。
まあ、好きな人は好きでイイと思います。好き嫌いなんて無いに越したことはないです。
今月は「昔聴いてもハマらなかったが、大人になってハマった音楽」を紹介したい。
ゆらゆら帝国。
日本のロックにおいて、非常に重要なバンドだと思う。
「日本らしいロック」の1つの完成系と言っても過言ではない。
ゆらゆら帝国は、1989年に結成された3人組のバンドである。
このバンドに出会ったのは、中学生の頃だったと思う。
ボクの第一印象は「怪しい」だった。もう何から何まで怪しいのだ。
ゆらゆら帝国という怪しい名前。
ボサボサの頭に、赤いパンタロン、眉毛のないボーカル。
不思議な歌詞、不思議な音楽。
いかにも怪しく、アンダーグラウンドな雰囲気がプンプンしていた。
しかし今となって噛み締める、このバンドの凄さ。
この怪しさこそが「日本らしさ」だったのだ。
彼らは「詞」と「音」両方で、今までのロックの常識をぶっ壊した。
今回はそんなゆらゆら帝国が日本のロックに与えた影響について掘り下げてみたい。
まずは「詞」
中学生の坊主には意味が分からなかった。
ただ語感や言葉選びがすごく印象に残った。なんかカッコいい。中坊のコバン少年にはそれで十分だった。
ちょっとだけ紹介すると
だいたい俺は今3歳なんだけど2歳のときにはもう分かってたね
(「ゆらゆら帝国で考え中」)
デーモンはたいがい犬のふりをして近所の子供達を見張っているんだ
(「3×3×3」)
さしずめ俺は一件の空家さ 垣根も鍵もついてないつもりさ
(「あえて抵抗しない」)
サナギがアゲハに変わる時たてる音 コーラの炭酸ぬける時無くす物
夜中の3時に目がさめて気づく事 このままずっとつづくような気がする事
(「午前3時のファズギター」)
うーん、よく分からん! でもなんかカッコいい。
ゆらゆら帝国の歌詞の凄いところは大きく2つ。
まずは「人らしさ」を歌わないこと。
ロックの曲といえば、自分の思想を強く反映したり、「愛」や「喜怒哀楽」を歌った歌が多い。
しかし、ゆらゆら帝国の曲にはそういう人間的な感情の曲は少ない。さらには人間以外(タコやロボットなど)が主人公の曲もある。
そしてもう1つは「空っぽの感情」を歌ったこと。
ボクたちは生きていて、常に「喜怒哀楽」のいずれかの感情で過ごしているわけではない。
ボーッとしている時間。何にも考えていない時間。心の周りにある肉体が「自分」としてこの世に存在しているだけの時間。
表現するなら「虚無感」。
それも1つの感情なのではないか。そんな風に歌っている気がする。
「喜怒哀楽無」なのだと。
ゆらゆら帝国は、そういった「人間らしい感情」を排除した曲や、「虚無感」を歌っているのだ。
確かにそう! この歳になって改めて聴くとブッ刺さります。
次に「音」
ゆらゆら帝国のサウンドイメージは大きく2種類あると思う。
1つは60年代を彷彿とさせるガレージサウンド(激しめの音)。もう1つはのっぺりした抑揚や起伏のないサウンドだ。この2つはそれぞれ、ゆらゆら帝国の前半と後半で分けられる。
ボクが昔「カッコいい!」と感じ、よく聴いていたのは、前半のガレージサウンドだった。分かりやすかったのだと思う。
正直、後半の音楽はよく分からなかった。
しかし今回特筆すべきは、後半の平坦な曲達の方だ。
ゆらゆら帝国は何を目指したのだろうか。
この点はまさしく「ロックの常識を壊した」という言葉がぴったりだと思う。
今までのロックは、ある程度曲の流れが決まっていたのだ。
つまり、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→ギターソロという、ある種の型にはまった音楽だった。
しかし彼らはこの常識を壊した。
常にAメロのようで、常にサビのようで、盛り上がりもなければ、クールダウンもない。気がつけば終わっている。
掴み所がないロック。
こうでなければロックじゃない。そんな常識をぶっ壊したのだ。
これらの特徴も、先述した「人らしさ」を排除した、無機質な音楽だと言える。ゆらゆら帝国のサウンドは、前半のガレージサウンドとは全く性質の異なる「尖った音楽」へと変化する。
だからこそ昔のボクは、なんだか難しい音楽だと感じたのだろう。
そんな歌詞と音が究極に融合したのが、2007年に発表した『空洞です』というアルバムだ。
まずは聴いてみて欲しい。
そして多くは語るまい。
日本の名盤で、常に上位にランクインしているこのアルバム。
究極なまでに、ゆらゆら帝国の目指した事が詰まったアルバムだ。
特に「空洞です」は歌詞、音楽どちらをみても、感情や熱量は感じることはできず、一切の無駄がない曲になっている。それでいて美しい。
20歳を過ぎてもう一度聴いてみると「これはとんでもないアルバムだ」と再認識させられる。
昔はガレージサウンドが好きだったが、今ではこういう曲の方が好きだったりする。
やっぱり好き嫌いは変わるもんである。
2010年、ゆらゆら帝国は解散するが、その理由は今や伝説である。
「バンドが完全に出来上がってしまった」
くうぅぅ! シビれるウゥゥ!
カッコよすぎるよ!
これ以上の音楽は「ゆらゆら帝国」として生み出せないと感じた故の解散。
解散に際し、コメントでこう残している。
「結成当初から『日本語の響きとビート感を活かした日本独自のロックを追求する』という変らぬコンセプトを基に活動を続けてきた」
「この3人でしか表現できない演奏と世界観に到達した、という実感と自負がある」
日本独自のロックの追求、そしてその到達点。
「日本らしい」ロックの1つの頂、それがゆらゆら帝国なのだ。
[ライタープロフィール]
コバン・ミヤガワ
1995年宮崎県生まれ。大学卒業後、イラストレーターとして活動中。趣味は音楽、映画、写真。
Twitter: @koban_miyagawa
HP: https://www.koban-miyagawa.com/