第8回 「みんなが応援してくれるんだったら、やってみようと思いました。
私たちががんばって、少しでも真実がはっきりしたら、たくさんの同じ病気の子たちの力になれるかな」
――あおいさんのケース(後半)
棚澤 明子
再発、そして肺への転移
術後の体も落ち着き、高校を卒業したあおいさんは近県の大学に進学して、一人暮らしを始めた。一人暮らしそのものはスムーズにスタートしたものの、入学当初から課題が多くて、夜中の2〜3時までかかりっきりになることもあった。体調が気になるようになったのは、そんな日々のなかでのことだった。
「入学して最初の健康診断で、頻脈か何かで引っかかって近くの内科で再検査してもらったんです。そのときは、まあ様子見かな?みたいな感じだったのですが、だんだん体調が崩れてきちゃったんですよね。夏休みに入って、福島県立医大で術後の定期検診を受けたら、再発してるって言われて……。しかも、肺に転移もしてるって。ダブルショックでしたね。再発しちゃったんだな、どうしてなんだろうって。その悔しい気持ちをどこにぶつけたらいいのか……。今度こそ、もう長くは生きられないかもしれない、という思いも湧いてきました。そのとき、大学を休学するのか、辞めるのかっていう話になったんです。家族と話し合ったり、大学に相談したりして、たくさん考えた結果、休学だと早く治して復帰しなくちゃっていう焦りが出てくるだろうから、一回辞めて、ちゃんと治してから、改めてチャレンジする方がいいかなって。結局、1年生の前期で退学ということにしました。できたら卒業したかった、っていう思いはずっと後まで残りましたね」
再発が分かってからの展開は早かった。「すぐに取りましょう」と言われて、10月に2回目の甲状腺全摘手術を受けた。一度目に苦しい思いをしているので、「あの思いをまた味わうのか……」と思うと気持ちは沈んだ。
「2回目もやっぱり、麻酔が合わなくて夜中に吐いて大変でした。意識がある状態で、看護師さんに痰を吸引されるのが、もう拷問みたいで……。すごく痛いし、気持ち悪いし。それは本当につらかったです。2回目の手術以降、鎖骨のあたりの感覚がなくて。いまも触ると違和感がありますね」
2度の手術の痕も、いまはほとんど目立たなくなったが、首元が出る洋服を着ることはない。インタビュー時のワンピースも、襟元が詰まったデザインだった。
「手術後は、日焼けすると傷痕が残りますってすごく言われたから、なるべく首が隠れるような洋服を着るようにしていました。もともと、ハイネックの洋服が好きだったから、今も首が隠れる洋服を着ることが多いですね。傷痕にまだ赤みが残っていた頃、人から「自殺未遂でもしたの?」って言われたことがあるんです。なんか、そういうの説明するのも面倒くさいですよね。だから、最初から隠してる方がいいかな、と思うんです」
2度と経験したくない「アイソトープ治療」
2回目の手術の後、肺に転移したがんを治療するために、アイソトープ治療を受けることになった。アイソトープ治療というのは、甲状腺がヨウ素を取り込む性質を利用するもの。高濃度の放射性ヨウ素のカプセル剤を飲み、取り込んだ放射性ヨウ素に、肺などに遠隔転移したがん細胞を叩かせるのだ。カプセル剤を服用した後は、当然、体から放射能を発してしまう。少量のカプセルを飲む分には外来でも可能だが、大量に飲む場合は病院内の特殊な部屋に隔離されることになる。あおいさんは、まず外来で2回、この治療にトライした。
「放射性ヨウ素のカプセルを飲んだ後は、家族が被ばくしないように家のなかでも隔離生活を送らないといけません。それから、甲状腺を放射性のヨウ素で満たしておかないといけないから、昆布みたいにヨウ素の入っているものを食べたらダメなんです。私、昆布とか昆布だしとか、とても好きなんです。治療が終わるまで、だしの利いたものを食べられなかったのはつらかったですね。家族と違うごはんをわざわざ親に用意してもらうわけにもいかないので、その時期は自分で肉を焼いたりしていました。でも、何に昆布の成分が入っているのかよく分からないから、醤油を使うのもこわくて、肉も野菜も塩をかけるだけみたいな。ふだんは高カロリーなものを好んで食べているので、この時期、体脂肪が5%ぐらい落ちました。体重も減って、ちょっとほっそりしたから、ダイエットになりましたね(笑)」
あおいさんは、2回のアイソトープ治療を受けたものの、思うような効果は出なかった。そこで、今度はアイソトープ治療専用の病室に入院して、大量にカプセル剤を飲むことになった。「手術も、外来でのアイソトープ治療もがんばったんだけど、がんが消えないから、また治療をしなきゃいけないんだ……」とやるせない気持ちだったと言う。福島県立医大内にアイソトープ治療ができる国内最大規模の病棟が完成したのは、ちょうどこのタイミングだ。あおいさんは、完成間もない病棟に入ることになった。
「その病室は、長い廊下を歩いて扉を何回も通った先にありました。至るところに、黄色と黒の放射線マークが貼ってあるんです。ああ、ここは危険区域なんだなあって。病室に入ってこられるのは、お医者さんだけ。しかも、1日1回だけです。看護師さんは入ってこられません。入ったら、被ばくしちゃいますから。自分も外に出られないから、トイレも全部室内にあります。スマホやゲームの持ち込みもだめ。一度この部屋に入れたものは持ち出せないから、捨てるしかないんですって。でも、あんまりいろいろと持ち込むと、汚染物のゴミ処理が大変だから、なるべく持ち込まないでほしいと言われました。仕方なく、暇つぶしに塗り絵だけ持って行きたいって言ったら、『捨てて帰る前提であれば……』ということで許してもらえました」
その部屋で、あおいさんは大量の放射性ヨウ素のカプセルを飲んだ。病室内であおいさんに薬を手渡した医師はすぐに外に出て扉を閉め、スピーカー越しに薬を飲むように合図をする。飲み終わると、扉の窓越しに口の中がからっぽになったことを確認し、線量計を腹部にあてて、薬が入ったことを確認。そのあとは、15分おきに体の向きを変えるように、スピーカー越しに指示をされたという。
「お医者さんから、吐くことはめったにないって言われたんです。若いから大丈夫だって。でも、薬を飲んだ日の夜中に気持ち悪くなって、吐いてしまいました。ナースコールをしても、看護師さんは入ってこられないから、自分で対処するしかないんです。トイレで吐けたから、なんとか洋服は汚さずに済んだんですけどね。吐いたときに力が入りすぎて、片目の血管が切れて真っ赤になってしまいました。次の日からは食欲がまったくなくなってしまったので、吐き気止めを飲んで、横になっていましたね。体から放射能が抜けるまでは、本当に気分が悪いままで。持ち込んだ塗り絵も、吐いた次の日からは開く気も起きませんでした。ちょっとテレビを見たり、あとは小窓から工事の人が行き交う様子を眺めたり……。病室の天井の近くに、クーラーみたいな形の放射線測定器があって、近づくとすごい数値がでて、遠ざかると数値が下がるんです。その数値を見たりしていました」
あおいさんがこの特殊な病室で過ごしたのは3日間。出るときには、持ってきた塗り絵も、着ていたパジャマもすべて、放射線を遮蔽する鉛のゴミ箱に捨てた。退院するときには放射線量も基準値まで下がり、食欲も戻ったと言う。
「治療中はつらかったけれど、これで少しでもがんが消えたらいいなあっていう気持ちでしたね。とにかく吐き気がひどかったので、早く薬が抜けないかな、早く家に帰りたいなって、そればっかり考えていました。あれはもう、2度と経験したくないですね。だた、あんなにがんばったのに、私の場合は、あんまり治療効果が出なかったみたいで……。つらい思いを我慢した時間が無駄になったように感じました。最初は治したいという気持ちが強かったのだけれど、アイソトープ治療以降は、少しでも進行しなければいいな、という気持ちの方が強いかな」
同じ病気の子たちの力になれるなら
裁判のことを知ったのは、両親を通してだった。
「甲状腺がんになったのが私ひとりだったら、まあ、しょうがないなと思ったかもしれません。でも、その頃、ニュースで300人近い子たちが甲状腺がんだって聞いて、これはどういうことなんだろうなって。少しずつ疑念というか、こんなにたくさんいるのは、おかしいんじゃないかと思うようになりました」
「原発事故と甲状腺がん多発は無縁ではないのかもしれない」。そう感じ始めてから、裁判の原告になるまでの流れは自然だった。あおいさんは、1巡目の検査でがんが見つかっているため、2巡目以降の検査で見つかっている人に比べると時効を迎えるのが早い(震災から10年がすぎるまでの期日が人より早く来る)。あおいさんの時効に間に合うように、提訴を急ごうという流れもあったという。
「私、一人だけじゃできなかったと思うんです。でも、みんなが応援してくれるんだったら、やってみようと思いました。私たちががんばって、少しでも真実がはっきりしたら、たくさんの同じ病気の子たちの力になれるかな、という思いもありました。だから、決断にはそんなに時間がかからなかったし、すごく勇気を出したっていうわけでもないんです。同じ病気を経験している仲間との出会いも大きかったですね。 “病気あるある”とか“入院あるある”みたいな話をできるんです。首がつるとか手しびれるみたいな感覚も、すごくわかりあえるんです。そういう話ができると、心が少し軽くなったような気がしますね」
2022年5月26日、東京地裁。あおいさんは意見陳述をすべく法廷に立った。原告の中では病状が重い自分が最初に出ていく方がいいのではないかという思いもあり、トップバッターを引き受けたのだという。ちなみに、当初、裁判所の意向で「原告全員の意見陳述はできない」とされていたこの裁判。「全員に意見陳述をさせてほしい」という署名は約6500筆集まり、この原稿を執筆している時点では、すでに7人全員の意見陳述が終わっている。
「意見陳述書を書くといっても、日記をつけていたわけでもないし、作文も得意ではないので、過去のことを調べながら書くのは大変でしたね。手術のこととかは思い出すのもつらくて、書けない日もありました。他の子の文章も、涙なしには読めないんです。みんなそれぞれ、すごいつらい思いをしてる。自分とはまた違うつらさがあったんだなって、後でみんなの意見陳述を聞いて改めてそう思いました」
この裁判は、全員が徹底して身元を隠して闘っている。「お見舞いにきてほしかったから」と、甲状腺がんになったことを友人たちに打ち明けたあおいさんも、訴訟を起こしたことは家族以外の誰にも話していない。
「誹謗中傷などについては、わざわざエゴサ(インターネットで自分のことを検索すること)もしないようにして、余計な情報は自分でシャットアウトするようにしているんです。ただ、そういうバッシングとは別に、裁判に勝ってお金が入ってきたら、それを知って妬む人から何か言われるかもしれません。そういう目で見られるのはイヤだなと思って。お金ほしさにやっているわけじゃないんです。だから、そう思われないためにも、バレない方がいいかなって。あと、友だちには余計な心配をかけたくないっていう気持ちもあります。だって、友だちはこの話を聞いたって、楽しいとは思いませんよね」
「原発事故と甲状腺がんの関係は、まだ裁判の途中なのではっきりしていないし、難しいことは分からないけど」と前置きしつつも、「少しでも危ないというのであれば、原発はやめてほしい」とあおいさんは言う。安全なエネルギーで世の中を動かしてほしい。それが願いだ。
「友だちの間で原発の話は、ちょっとタブーみたいな感じですね。あんまり言うと、そういう目で見られるような気がするから、触れないでおこうって。ただ、この裁判のことを知ってほしいっていう気持ちはあるんです。実際、あんまり知られていませんよね。福島でも、興味を持っている人以外はほとんど知らないと思うんです。裁判のニュースレター(「311子ども甲状腺がん裁判」のホームページにも掲載)も、たくさんの人に読んでもらいたいなあって。あれを読むと、原告にどんな子がいて、それぞれにどんな思いをしてきたのかが分かってもらえるので。やっぱり事実を知ってもらうということが、大きな力につながると思うんです」
新たな一歩を踏み出す
意見陳述書には、まだ体調が優れず、腫瘍マーカーの数値も上がっているということが書かれているが、あれから1年たった今も数値は高めで、2〜3カ月に1度通院を続けているという。
「甲状腺を全摘した2回目の手術後からホルモン剤のチラーヂンを毎日飲んでいるのですが、私の場合、規定の量よりちょっと多めに飲まないといけないんです。その副作用で、動悸がしたり、一瞬息がつまるように感じたり、体が暑くなって汗をかいたりしますね。それもだいぶ慣れましたけど。アイソトープ治療のときは逆に飲んだらダメだったのですが、治療が終わってまた飲み始めて、今は毎日欠かさず飲んでいます。これを一生飲み続けないといけないんだなあって思いますね……」
甲状腺がんになったことで、希望の大学を受験できなくなってしまったり、結果的に進んだ大学も1年生の半ばで中退せざるを得なくなってしまったりしたことについては、たくさんの思いが渦巻いている。
「甲状腺の手術前、ある検査を受けるとき、『研修生が診察に入ってもいいですか?』って聞かれて、深く考えないで『いいですよ』って言っちゃったんです。でも、自分とあんまり年の変わらない学生が自分の診察を見ているのが、なんだかイヤで……。こっちは患者だけど、あっちは勉強してるんだっていう、立場の違いを目の当たりにしてしまうと複雑な気持ちでしたね。次は断ろうって思いました。一緒に中学や高校を卒業した同級生も、いまは就職してがんばっています。妬んだりしたいわけじゃないのに、正直、うらやましいっていう気持ちも出てくるんですよね……」
たくさんの出来事があったなかでも最も強く心にひっかかっているのは、大学を卒業できなかったことだ。その悔しさは、簡単に忘れてしまえるようなものではない。だから、あおいさんは今、新たな学びにチャレンジしている。時間はかかったけれど、決して諦めなかったのだ。
「何か“はっちゃけたこと”っていうのかな、何かにチャレンジするんだったら、やっぱり30までにっていう気持ちがずっとあったんです。体力も30を越えたら落ちるかもしれないし。まわりの友だちにも、20代後半に入って、スキルアップのために資格を取ったりしている子がいるから、私もやっぱり、もうちょっと学びたいなって!」
もちろん、苦しいことを数え上げればきりがない。「元の体に戻りたいけれど、戻れない」という、やるせない思いも抱えたままだ。
それでも、新たなチャレンジについて語るあおいさんは、晴れ晴れとしていた。
インタビューから数カ月たった今も、その笑顔は忘れられない。
原発事故以降の小児甲状腺がんについては、被告・東京電力をはじめ、「本来なら、そのままにしておいても寿命を全うできるような小さながんを、わざわざ一斉検診で見つけ出して治療しているだけだ」というスクリーニング効果や過剰診断論を唱える人たちがいる。そうした論をもとに、心ないバッシングを繰り返す人も後を絶たない。
3cmを超えるがん。再発と転移。「このままだと23歳まで生きられません」という医師の言葉。あおいさんの病状は、決して「放っておいても構わないもの」ではなかった。
その事実を、まずは知ってほしいと強く思う。
[ライタープロフィール]
棚澤明子
フリーライター。原発や環境、教育、食など、社会課題を主なテーマに執筆。著書は『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』『いま、教育どうする?』(弘田陽介氏との共著)(すべて彩流社)ほか。16歳、19歳の男の子の母親。