福島原発事故・小児甲状腺がん──当事者の声を聞きに行く 第7回

第7回 「これが最後の晩餐になるかもしれないからちゃんと食べておこう」

                      ――あおいさんのケース(前半)

棚澤 明子

2022年5月26日、「311子ども甲状腺がん裁判」を闘う原告7人のなかで、トップバッターとして意見陳述を果たしたあおいさん(仮名・27)。

「もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません」

鮮血のような言葉の数々は、多くの人の心を揺さぶった。

 

原告団長を務めるちひろさんは、法廷であおいさんの意見陳述を聞いた原告たちが涙を流したことを、このように振り返っている。

「それまで涙を見せたことがなかった子たちも、みんな泣いたんです。そのときにわーっと感情を出したことがきっかけになって、お互いの病気のこととか、苦しい気持ちとか、本音を話せるようになりました。関係性が変わったんですよね。だから、あの日は私にとってすごく大きな意味があるんです」(本連載2023年6月15日掲載)

 

実は私の知人にも、後に公開されたあおいさんの意見陳述書をたまたま読んで、初めて甲状腺がんの問題に危機感を抱き、寄付を決意したという人がいる。魂から絞り出した声は、きっと届く。そう教えてくれたのが、あおいさんだった。

 

あれから約1年が過ぎ、あおいさんご本人へのインタビューが叶うことになった。

再発や転移、2度の手術や3度のアイソトープ治療など、苦しい経験を重ねてきた彼女だからこそ、つらい話だけでなく、他愛のない話も、楽しい話も聞きたかった。原告として、患者としてだけではなく、ごくふつうの若い女性としての姿も知りたかったし、伝えたいと思った。

 

インタビュー当日、ふんわりとしたロングワンピースで現れたあおいさん。

笑顔で話してくれた小さなエピソードの連なりは、あおいさんのまっすぐで温かな人柄を伝えるものばかりだった。

けれども、いったん文字にしたそれらのエピソードは、個人を特定される要素を徹底して伏せているあおいさんの手によってほとんどが消されることになった。

 

何度も考えたことを、改めて考える。

被害を訴えている人が、しかも、まだ20代である若者たちが、誹謗中傷を恐れて必死に素性を隠さなければならないような社会を作ったのは、私たち大人だということだ。

その責任は重い。

 

 

*******

 

知らなかった原発の存在

あおいさんが生まれ育ったのは、福島県の中通り。挑戦したいことがあれば、何でも応援してくれるような両親のもとで子ども時代を送ったという。

「とりあえず、やりたいって言えば何でもやらせてもらえて、反対された記憶はないんです。とはいえ、どこにでもいるような、普通の女の子でしたね」

 

2011年3月11日は卒業式。デジカメを持ってきていいことになっていたので、みんなでたくさん写真を撮って、別れを惜しんだ。帰宅してからは、ビデオ通話で、終わったばかりの卒業式のことを仲良しの友だちと語り合っていたという。未曾有の揺れに襲われたのは、おしゃべりが盛り上がっていたまさにそのときだった。

「数日前から何回か地震あったから、最初は、また地震か……という感じだったんです。でも、揺れがどんどん強くなって、棚から頭の上にボールペンが落ちてきたりして、これはヤバイ!と思っていたら、ビデオ通話も切れちゃって。もしかしたら家がつぶれるかもしれない、と思いました」

 

自宅は少し傾いてヒビが入ったが、致命的な事態は免れた。その後、原発事故が起きたというニュースを聞いたが、あおいさんは、原発の存在自体を知らなかったそうだ。

震災直後は食べ物の入手に苦労した。あおいさんたち家族は、地元産であれ何であれ、手に入ったものを食べていたような記憶があるという。

「ご近所や親戚で食べものをあげたりもらったりする文化があるんです。うちも知り合いから採れた野菜をもらって、気にせずに食べたりしていました。多分、汚染されたものもあったんじゃないかな、と思います」

これまで、福島で被災した母親たちを取材するなかで、「祖父母や親戚が家庭菜園でつくった野菜を孫に食べさせたくて、原発事故直後も相変わらず持ってきていた。断りたくても断れなくて困った」という話を何度も聞いた。目の前にいる人との関係をこれまで通りに保ちたい気持ちと、目に見えない「放射能」を恐れる気持ちのあいだで揺れながら、あのとき、たくさんの人たちが台所で途方に暮れていたのだと思う。

 

新しい洋服で甲状腺がん検査へ

震災から5日後、あおいさんは高校の合格通知を手にした。念願の電車通学ができることが決め手だったと言う。合格発表は予定より1日遅れの3月16日。ガソリンの入手が困難な時期だったため、車で高校まで発表を見に行けない人には、中学校で合格通知を手渡すという連絡があったのだという。あおいさんの家もガソリンが切れていたため、あおいさんは歩いて中学校に向かった。

「震災から5日しか経っていなかったけれど、意外とみんなケロッとしていたような気がします。不合格だった子は事前に先生から連絡があったから、その場に来ているのはみんな合格した子たちだったんです。だから、お互いによかったね!って言いながらも、誰々ちゃんは来てないねって。地震とか原発のことより、目の前の合格発表のことでいっぱいいっぱいだったような気がします。親とか先生から、外に出るなっていうことは言われていなかったので、合格発表の後、昇降口の外で30〜40分しゃべっていた記憶があります。この日、私たちの街の放射線量はすごく高かったらしいんです。そのことを知ったのは後になってからで、そのときは何も知りませんでした」

 

当時、家族や友だちが放射能のことを話題にした記憶はない。そんな雰囲気のなかで、気にしているようなそぶりを見せると、「あの人、神経質じゃない?」とまわりから言われるような気がして、あおいさんも早々とマスクを外したという。

 

高校では、気の合う友だちがたくさんできた。自分の好きなことを話すと、わかってくれる人、一緒に盛り上がってくれる人が必ずいる。それがとてもうれしかった。

高校生活を満喫していた2年生の秋、あおいさんは初めて県の甲状腺がん検査を受けた。1巡目(*1)の検査だ。みんなが受けるものだと言われて、とくに不安もなく、自然な流れで受けに行ったのだという。けれども、あおいさんの検査だけがなかなか終わらなかった。エコー検査の技師が同じところを何度も見ている。終わって検査室を出ると、自分より後に入った人がとっくに終わっていて、不安になった。

「不安ではあったけれど、そのときは『がんだったりしてね!』って、家族と冗談みたいに笑い合って終わりでした。検査のときは、買ったばっかりだったその洋服を着ていたことを覚えています」

 

そのあと、間もなく「要精密検査」という通知が届いた。腫瘍は3cmを超えていたという。県民健康調査では腫瘍が5mmを超えると再検査となる。そもそも甲状腺そのものが4〜5cmしかないのだから、かなり大きいと言えるだろう。とはいえ、自覚症状はない。あおいさんは「がんなのかもしれない」という不安と、「大丈夫だから、とりあえず精密検査に行こう」という気持ちのあいだで揺れながら、福島県立医大へ足を運んだ。

「ちょっと記憶が曖昧なんですけど、採血とかをして、その次の検査のときだったかな、首に針を刺して細胞を採る穿刺吸引細胞診をやりますって言われたんです。本当は刺したくなかったんですけど、お母さんに「やってもらいなさい」みたいなことを言われて渋々……ですね。やらないと、がんかどうかが分からないから仕方ないんですけど。針を刺す前に、「息はしてていいけれど、絶対に唾をごっくんしないで」って言われて。首に針を刺されたことなんてないから想像できないんだけど、「え、唾飲み込んだらダメなんだ!?」と思って……。私の場合は、甲状腺自体が硬くなっていたみたいで、針を刺しても細胞がうまく採れなかったんです。それで、3回ぐらい針を刺されて、めちゃくちゃ痛かったですね……」

 

「このままだと、23歳まで生きられません」

「要精密検査」という通知を受け取った10日ほど後に、母親と一緒に結果を聞きに行った。結果は「甲状腺乳頭がん」だった。リンパ節への転移も見つかったという。告知の場で「がん」という言葉は使われなかった。他の原告の証言のなかには、その場で「原発事故とは関係ありません」と唐突に言われたという話もあったが、「原発」という言葉も一切出なかった。

「よくドラマとかで見るような、『がんです!』みたいなシーンはなくて。『手術しましょうね。手術すれば治りますよ。手術しないでこのままいくと、23歳までしか生きられないから』って。あ、これはヤバイのかも、と思いました。やるせないっていうか、この気持ちをどこにぶつければいいんだろうって……」

 

覚えているのは、手術のために入院した日の病院食が好きなメニューだったこと。「これが最後の晩餐になるかもしれないからちゃんと食べておこう」と思いながら、噛みしめたという。

なるべく前向きに……と思ったあおいさんだったが、その夜は緊張して眠れなかった。不安になるし、考え過ぎてしまうし、もう逃げられないと思うとパニック気味にもなる。もはや涙すら出ないという状況で、ついには微熱が出てしまった。不安を抱えながら待っている時間は何よりつらい。「手術室に呼ばれるのを待っている時間が一番きつかった」とあおいさんは振り返る。

手術では、甲状腺の右葉と、転移していたリンパ節を切除した。手術そのものは眠っているあいだに終わったのだが、手術後の一夜は「地獄のようだった」と言う。

「傷は痛いし、首は動かしちゃいけないし、いろんな管につながれて寝たきりで。麻酔が合わなかったみたいで、夜中に気持ち悪くなって吐いちゃったんです。吐くって言っても、首に力を入れちゃいけないから、看護師さんに支えてもらって、ちょっとだけ体を横にして……。翌朝の診察で「起き上がっていいですよ」って言われたら点滴以外の管は外れるんですけど、それまでは本当に地獄でした。今でも、あのときの夢をみることがあるほどです。お母さんはずっと一緒にいてくれて、手術した日も簡易ベッドを借りて泊まってくれましたね。とはいえ、看護師さんじゃないと何もできないから、役に立ったわけではないんですけど(笑)。でも、いてくれただけで心強かったですね。お母さんとは、よく病院のなかのスタバにも寄りました。その時間は、ほんの少し気持ちが和らいだことを覚えています」

 

あきらめざるを得なかった東京への進学

「甲状腺がんになったことは家族以外に隠している」という原告もいるが、あおいさんは仲よしの友だちには手術を受けることを打ち明けていたという。

「私、みんなにお見舞いに来てほしかったんです(笑)。だから、けっこう言いました。「私、がんなんだよね!」って。仲いい子たちが3〜4人お見舞いにきてくれましたね。『えー、がんばってー』とか『大丈夫じゃない?』みたいな感じだったかな。多分、クラスのみんなが知っていたと思うんですけど、普通に接してくれて、ありがたかったですね」

 

病院を訪れたのは友だちだけではない。手術の数日後、進路に関する三者面談のために学校の先生が病院にやってきた。まだ体調も落ち着かず、意識もぼんやりとしたまま、まともに声も出ないという状況で、先々の進路のことを決めなければならなかった。

「ちょうど進路を決めるタイミングと手術がかぶっちゃったんです。だから、ちゃんと考えたり、話し合ったりする時間が全然なくて。私、本当は東京の大学に行きたかったんです。でも、『今こんな状態なんだから、無理なんじゃないか』って、先生からも親からも言われて。親は、病気の私を遠くで一人暮らしをさせるのが心配だったみたいですね。なんかもう、はいはいはいって聞くしかなくて……。結局、東京はあきらめて、近県の大学を受けることになったんです」

 

退院後も、声が枯れたり、首も動かすのがつらかったりはしたが、体調は少しずつ戻った。

首の傷口は、紫外線にあたると傷痕が残るということだったので、テープを貼っておかなければならなかった。

 

(*)1巡目は2011年〜2013年、2巡目は2014〜2015年、3巡目は2016年〜2017年、4巡目は2018年〜2019年、5巡目は2020〜2021年。現在は6巡目の検査に入っている。

[ライタープロフィール]

棚澤明子

フリーライター。原発や環境、教育、食など、社会課題を主なテーマに執筆。著書は『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』『いま、教育どうする?』(弘田陽介氏との共著)(すべて彩流社)ほか。16歳、19歳の男の子の母親。

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