噺のつれづれ 第4回

その4 落語「江戸と上方」

広尾 晃

 

芸能を語るうえで、江戸東京と上方の違いは確かに存在する。落語でも、東京落語と上方落語は基本的な「言葉」が違う上に演出法もちがう。舞台装置も違うし、厳密に言えば着物も、その着こなしもかなり違う。

歌舞伎も、相撲も、落語も、江戸と上方は、江戸時代中期から盛んに交流していた。人的交流も盛んだったし、互いの演出や興行方式を取り込むことも多かった。

その挙句に相撲は昭和初期に統合されてしまった。

歌舞伎には「上方歌舞伎」というジャンルがあるが、今、関西地方に住む歌舞伎役者は皆無になり、幼いころに関西で生活した記憶がある役者さえ、15代目片岡仁左衛門など数えるほどになっている。

人形浄瑠璃から移入された「院本もの(まるほんもの)」などの上方歌舞伎は確かに存在するが、演じているのはみんな東京在住の役者。若い世代になると、上方言葉が怪しくなっている役者も多い。文楽は大阪に国立文楽劇場があり、関西が本場だが、歌舞伎は90%以上「東京のもの」になってしまった。

そんな中で落語、講談、浪曲などの寄席芸能系のジャンルだけが、上方と東京の色合いをくっきりと残して併存している。

これは何と言っても、現在に至るまで寄席の興行組織が東西に並び立っていることが大きい。東西の寄席芸人たちは、地元のニーズに合わせて芸を磨いてきたのである。東京の噺家が上方に住むことも、上方の噺家が東京に住むことも、これまで枚挙にいとまがないほどあったが、それでも混ざり合わなかったのは、ホームグランドが違ったからだ。

 

「言語が思想を規定する」という言葉がある。自分が日常的に話している言語の持つ文化的な特性が、その民族の考え方や価値観などに強い影響を表すということだ。

 

落語における東西での芸の差異は、まさに「関西弁と東京弁の差」に集約されるだろう。

東京弁は折り目正しい。話者と聴者、彼我をはっきり分けて、位置関係を確かめつつ話す言葉だと思う。関西弁はなれなれしい。話者が聴者を巻き込んで、なれ合いのような関係を作りながら話すことが多い(ただし、関西弁には同時に相手を突き放すきつい部分もあるが)。

 

当然、上方落語は、庶民が主人公であることが多い。興味深いことに、侍が出てくるときは、上方落語であっても「江戸弁」風の言葉を話す。そもそも昔の京、大坂、奈良には大名がおらず、ごく少数の武士階級が支配していた以外は、町人が切り盛りしていた町なのだ。言うなれば、上方落語の底流には「庶民」の価値観がある。それは、身分のないフラットな世界観だといってもよいだろう。

これに対し、江戸、東京落語には上方落語よりもはるかに多くの侍が出てくる。庶民が出てくる話であっても、武士階級が支配する秩序を感じさせるものが多い。上方落語との対比で言うならば、身分の上下を感じさせる垂直の世界観だといってよいだろう。

 

日本の文化は、例外なく、まずは上方で生まれ栄え、江戸の町が発展するとともに江戸へと伝えられた。落語のネタも多くは上方で生まれ、江戸へと移入された。しかしながら、落語には江戸で生まれた噺(江戸落語)も多い。当然ながら「江戸落語」には武士階級の登場する噺が多い。「たがや」「井戸の茶碗」「粗忽の死者」「妾馬」などの江戸オリジンの噺は、何度も上方に移入されたが、根付くことはなかった。

 

もう一つ、東西の落語で大きく違うのは「道具」「演出」だ。東京落語が扇子一本の「素噺」なのに対し、上方では噺によっては「見台」「膝隠し」などの道具を使う。小机のようなものだ。この道具を橋の欄干や船端に見立てたり、代書屋の机にしたりする。また、「小拍子」「貼り扇」などで音を立てたりもする。

さらに、上方落語は噺の最中に音楽が挿入されることがある。これを「はめもの」という。「はめもの」には、雨や雪などの自然現象を表すものもあるが、多くはストーリーが「芝居がかった」ときに挿入される。上方落語には、歌舞伎の要素が、こなれることなく残っていると言えよう。

 

かつては、東京落語を愛好する人の中には、上方落語はくどくて洗練されていないという人が多かった。しかし、今はそういう声はそれほど聞かなくなった。

 

ここ40年ほどの間に、上方落語と東京落語は、かつてないほど融合しつつあるように思う。これまでのように、ネタの交換をするだけではなく、東西を超えて、演出法や「落語観」を教え合い、交流し合う噺家が増えた。

これは、かつてはいなかったオピニオンリーダー的な噺家が出現し、東西を問わず多くの噺家に影響を与え始めたことが大きい。言うまでもなく五代目立川談志がその嚆矢だが、三代目桂米朝もその一人だろう。

さらに、理論家ではなかったが二代目古今亭志ん朝、さらには二代目桂枝雀という、傑出した技量を持った噺家が登場し、東西の噺家に強烈な影響を与えた。

そして談志、米朝、枝雀、志ん朝の延長線上に、春風亭小朝、立川志の輔、笑福亭鶴瓶、笑福亭さん喬、柳家喬太郎などの新しいタイプの噺家が登場している。彼らを東京落語、上方落語で線引きするのはそれほど意味がないと思われる。

 

東西の落語はかつてない「融合の時代」を迎えているのかもしれない。私は今、かなりわくわくしている。

 

 

[ライタープロフィール]

広尾晃(ひろお こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」執筆。また文春オンライン、東洋経済オンライでも執筆中。主な著書に『プロ野球なんでもランキング 「記録」と「数字」で野球を読み解く』(イースト・プレス、2013年)『プロ野球解説者を解説する』(イースト・プレス、2014年)『もし、あの野球選手がこうなっていたら~データで読み解くプロ野球「たられば」の世界』(オークラ出版、2014年)『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス、2015年)『ふつうのお寺の歩き方』(メディアイランド、2015年)『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ』(イースト・プレス、2016年)『奈良 徹底的に寺歩き 84ヶ寺をめぐるルート・ガイド』(啓文社書房、2017年)等がある。

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