第7回 あなたならどうする=さわがず
矢島一夫
公園の清掃をしながらよく口ずさむ歌がああります。
「泣くの歩くの死んじゃうの、あなたならどうする」
という、女性歌手のヒット曲です。なぜかそのフレーズが鼻歌になって出るのです。
せっかく掃き集めた落ち葉を、あるときは保育園児と先生が両手で掬っては天に向けて「葉っぱ吹雪」をやり、散らかして遊んでいる。またあるときは若いカップルが、落ち葉の小山を蹴散らしながら行ったり来たりで何かを語り合っている。そんなとき「あなたならどうする」のフレーズを口ずさんだりするのです。
「やめてください」とか「何してんだよ!」と言うのは簡単です。それじゃ、様にならないでしょ。
何でもそうですが、不都合・不条理をされたら怒る? キレる? 腹を立てる? 文句言う?
わたしは違いましたね。獄中で独学自育した忍耐の実践をしました。
風雪に忍(た)えてこそ咲く桜花
人生の冬われもさわがず
これまでの自分を省みて言えるのですが、自分勝手という言葉の意味を、新しく「味つけ」「見つける」ことが必要だと気付きました。
寄場(刑務所)でも身過ぎ世過ぎのシャバでも、「おとこの忍耐(がまん)は灰下(かいか)の燠(おき)」です。忍耐できない人は何をやってもつまらない。(将棋のようにあっちこっち引っ掻き回しても相手を詰めることができない。逆に詰められてしまう。)
忍という字は刃と心で成り立っています。その意味は、誰かに刃をつきつけられてもじっと耐える心なのだというのが一般的です。
しかし、自分が誰かに対して刃をつきつけてしまうようなこともあるわけです。だから消極的からのみ忍という字があるのではないですかね。
他者から刃をつきつけられる。人情と道理に反するよなことをされる。無理をおしつけられる。高飛車に言動される。腹が立つことをされる。そんなときにすぐ短絡的な反応をして粗暴な言動をしようとする自分の「浅はかさ」にこそ刃を向けます。
だから、忍えるとは、自分に勝つ手を考えるチャンスと言えるかもしれません。
相手に非があっても、恕(ゆる)すおおらかさをもち、善いほうへ導き扶(たす)け自分も助かる、相手も得して自分も得する。お互いが得して納める。これを納得といいます。いい考えでしょ。
また忍耐とは、「ゆるす」ということでもあるんですね。
そこで「ゆるす」という真意をよく識(し)ろうと考えました。
縦す=すてておく、みのがしてやる
(おおらかさ、ゆとり、度量ということ)
聴す=ききいれる、うけいれる
(同意や同調とはちがい、ありのままうけとめる)
赦す=あやまちをゆるす、すてておく
(取るに足らないことを理解する、自分の夢や希望や目標にむけてこそエネルギーを注ぐ)
宥す=おおめにみる、たすける
(自分の中に力があるからそれができる)
侑す=ゆるす、たすける
(人はそれだけの力が有る)
恕す=心を相手の立場におきかえて思いやる
(自分の場合ならどうするだろうかと立場を観る方法、インテリジェンスを考えてみる)
他人事の後始末だってやらなくてはならない、強く言いたくても言えない、やらなくてもいいこともやる――そんなときがありますよね。
「自分のほうが正しい」というときでも、一歩退いて予想外の難や禍を避けねばならない体験もするでしょ。
こんなときは、みんな、インターバル(間とか間合い)をとる必要があるんですね。この間合いをとれないときの人を、間抜けというのですね。過去のわたしがそうでした。
ですから、忍学努道(にんがくどとう)という四字熟語を自作したのです。忍えて学び努めて道を往く、学んで忍え道に努めるという意味です。解釈は、
忍=刀剣を作るときのように「やき」を入れ「打ち」「鍛える」のです。(知育、徳育、体育、心育)
学=まねし、ならう。それが学ぶの意味ならこう考えることもできるでしょ。
良いことも悪いことも人や社会からまなぶ。どうせなら一つでも良いことをまねし、ならうようにするのです。
努=人の新しい命は男からではなく又もや女性から生まれる。奴隷のようにされてきた人たちが、世界と歴史を創造してきた。その力をまなぶ、のです。
道=人情と道理に悖(もど)らない生活、人生の仕方。まさにどんな道を行くにも首がかかっているということなんですね。
社会生活の能力(経済力と精神力の合成力)が必要であり、そのためには問題解決の能力がともなうと考えたのです。そのためにも日常で何が起きても耐えることができるようになってきました。
せっかく掃き集め袋詰め寸前の落ち葉を幼児と保育士が天空にバラまいているのを見て、「困ったことしてくれるなあ」と思いました。わたしは傍らに行き、こう言いました。
<わあ~、たのしく遊んでいるねえ。おじさんもやりたいな。でもまたこれを掃き集めて袋に詰めなきゃならないんですよ>と笑顔で話しました。すると傍らの先生は
<すみません、すみません。ほら○○ちゃんたちも終わりにしようね。ほんとうにごめんなさい>
と謝ってくれました。それに対して
<なあに、いいのですよ。子どもは遊びの中から人として生きてゆく方法と道を学ぶのですからね>といい、散らかった葉っぱを熊手とほうきでかき集めたのでした。
いいトシこいて、文句言ったら笑われちゃうでしょ。それより多くの人に支えられて生きているのですからね。老人になれば公園の掃除ぐらいしか仕事がないという格差社会で、どんな人との出会いも大切にして学び、清々しい気持ちで仕事や生活をしたいじゃないですか。
これらの拙いエピソードが、どこかで、いつか、誰かの参考になればいいな……。
公園の周囲を今日も走っている人たちがいます。掃除している脇を何度も行ったり来たりで挨拶もできない「うっとおしい」人もいます。
みんな近所の人なのに、ひどく溜まった落ち葉を掃除したり、そこにあるポイ捨てが目についても指1本動かそうとしない。自分の住む町を愛していないのだろうか。
♪あなたならどうする~~♪
【ライタープロフィール】
矢島一夫(やじま・かずお)
1941年、東京世田谷生まれ。極貧家庭で育ち、小学生のころから新聞・納豆の販売などで働いた。弁当も持参できず、遠足などにはほとんど参加できなかった。中学卒業後に就職するが、弁当代、交通費にも事欠き、長続きしなかった。少年事件を起こして少年院に入院したのをはじめ、成人後も刑事事件や警官の偏見による誤認逮捕などでたびたび投獄された。1973年におこした殺人事件によって、強盗殺人の判決を受け、無期懲役が確定。少年院を含め投獄された年数を合わせると、約50年を拘禁されたなかで過ごした。現在、仮出所中。獄中で出会った政治囚らの影響を受け、独学で読み書きを獲得した。現在も、常に辞書を傍らに置いて文章を書きつづけている。