湘南 BENGOSHI 雪風録 第36回

宝塚歌劇を観ました。雪組です。

このところ宝塚歌劇を観ると、自分でもよくわからないけれども最後の階段降りでトップさんと左右のジェンヌさんとがお辞儀をする時に涙がでてしまう。あんまりきれいなこの舞台の終わってしまうのが悲しくなってしまう。

 

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宝塚歌劇を観始めた当初、私にとって宝塚歌劇は自分と同年代か少し上くらいのジェンヌさんが(ただし正確な年齢は皆さん秘密ですが)舞台の上で活躍するところをみる場所で、とにかくキラキラしていて、私はそれにすごくパワーをもらっていた。

語弊を恐れずにいえば、同年代でもここまでやれるんだ!主役はれるんだ!という点が確かに私をエンパワメントした。

そして、今は、仕事で多くの人からいろんな辛いこと、ひどいこと、苦しいことを日々聞いて、ともすれば自分自身も悲観的になりそうになるけれども、そういう時は宝塚歌劇を観て、未来を前向きにとらえなくては…と思い直している。

他の芝居ではそうお目にかかれない演者の多さ、衣装の豪華さ、生オーケストラで迫力を持たせる宝塚歌劇においては、難解な解釈、問題提起以上に、観客の心を迫力でもって揺さぶることが大きな目的の一つであり続けると思う。

その舞台に、幕が降りる最後の最後まで自由に生きられず、敬意をもって扱われず、辛い目にあい続けている役がいたら、しかもそれが観客の日常とリンクするものだったら、きっとその舞台は支持されない。

宝塚歌劇の舞台は、その輝きにふさわしい、未来とか自由とか親愛とかおよそあらゆるプラスなものを示してきた。宝塚歌劇は、人が前向きに生きるためには何が必要かについて知識を有している。

 

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私は、まんまと宝塚歌劇のキラキラにあてられ、贔屓を見出し、そして贔屓を一生懸命応援し、贔屓の役付きに一喜一憂するヅカオタになった。

宝塚歌劇の雑誌は、読み物中心の「歌劇」と写真の多い「GRAPH」の2種類が毎月販売されるけれども、これら雑誌を隅々まで舐めるようにみて写り込んだ贔屓を探し、スカイステージ(宝塚専門チャンネル放送)で稽古場映像が流れれば、トップさんの稽古の後ろに控える多数のジェンヌさんたちの中から真剣な眼差しの贔屓をたちまち見出して、いやこの人がトップにならない未来なんてありえていいんでしょうか……と悩ましいため息をついた。

もうこの頃にはよもや贔屓が座席降りで近くにきてくれてもあまりの輝きにとても直視はできず、誰も見ていないのに一人照れ、贔屓がかけ声を上げながら舞台に駆け戻ると、贔屓の一番似合う場所はやっぱ舞台やで!!とまた調子を取り戻して拍手する手にも自ずと力が入るのだった(決してバクダン拍手にはならないようにして)。

そして私の贔屓はめでたくトップになり、贔屓目に見ても大スタアになり、そして惜しまれながら退団していった。自動的に私の足の裏にはヅカオタにして贔屓オタという2足の草鞋がはりつき、今日まで来ている。贔屓の退団後は、座席降りに照れなくなった。

なお、先日贔屓のサイン本お渡し会があったが、この時はもう贔屓が輝いていて、本を受け取るすなわち太陽に向かって進むのと同義であるから当然何もわからなくなった。

つい贔屓についてたくさん喋りましたが……結論として私は今も私は宝塚歌劇を好きで、そして必要としている。

 

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その宝塚歌劇がこういう報道になった。

インパクトのあるジェンヌさん間のやり取りがメディアでは大きく取りあげられているように思うけれど、そも、おおもとの会社が宝塚歌劇に不可欠な、その存在無くして宝塚歌劇そのものが存在し得ないタカラジェンヌたちを、どういった立場・条件で扱っていたのか、彼女たちの属する働く環境がどうだったかということが検証されなければならない。

人が前向きに生きるには何が必要か、その知識がある宝塚歌劇が、それを実践していたか。いやこんな抽象的に言うことはない。働く人の、その環境に関わる法を守っていたか。

 

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働く人の環境について、次回以降も引き続き考えていきたい。

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